あなたが懐疑主義だと思っているものは懐疑主義ではない

「知識は正しい方がよい」という話をもうちょっと掘り下げようと思ったら、なぜか懐疑論になってしまったので、先にこっちを投下します。

懐疑主義とは疑うことではない

まかり間違って私の文章を読んでいるような人から見ると、世間には「あまりに簡単に信じすぎだ」と思うことが多いかと思います。そういった問題意識があるからこそ、「疑え」という強い主張が出てきます。

そんなわけで、「疑え」というキャッチフレーズは良く使われます。懐疑主義の猛者というより「ニセ科学批判者」という肩書きで有名になってしまった菊池誠さん*1のASCIIの記事も「ASCII.jp:信じるな疑え! 「ニセ科学」批判の菊池教授に聞く (1/3)」でしたし、香山リカさんとの対談本も『信じぬ者は救われる』です。

結果として「疑う事が重要だ」「懐疑主義者は、常識も、そうでないものも疑ってかかる」という印象が強くなり、「疑え」は懐疑という考え方の基本事項のように語られているわけですね*2

「疑う」という表現はキャッチフレーズとして優れているものの、あまり本質的ではありません。疑う方向を間違うと、いとも簡単に陰謀論などに行ってしまうのです。

では懐疑主義の本質とは?

懐疑主義の本質は、ズバリ「事実に拘ること」です。それはもう愚直なほど事実を重視するのです。もうちょっと具体的に言えば、「根拠を客観的に評価すること」です。

これはとても難しいし、完全に実行しようとすれば必ず挫折するでしょう。現実的には、出来る限り努力するということになります。

「出来る限り」というのはどれぐらいでしょうか。懐疑主義者も人それぞれ能力の違いがあります。ですから、一人一人が出す結論にも結構な違いが現れます。しかし、懐疑主義者を自称するのならば、最低限の基準として、自分の面子や過去の発言、政治的な立場よりも、根拠を優先するという態度が必要です。

この意味で、陰謀論者は懐疑主義者ではあり得ません*3

当然、懐疑主義者は何も信じないわけではありません。そして、信じるか信じないかの二分法をとるわけでもありません。私の考えるガイドラインを示してみます。

  1. 調べる努力をせよ
  2. 信念ではなく根拠に基づいて信じよ
  3. 根拠の強さに応じて確信度を決めよ
  4. 信じるときは間違っていることを覚悟せよ
  5. 根拠が不十分ならば保留する勇気をもて

「自分の頭でよく考えろ」

これもまた、懐疑論的な文脈でよく出てくる話です。確かに、他人の話を何の吟味もせずに受け入れるのは問題です。ニセ科学を信じている人の中には、考えずに信じている人が居るように見えることもあるでしょう。

でも実はですね…これ、あんまり良くないキャッチフレーズです。

知識のない状態で自分の頭の中で考え始めると、どんどん現実から乖離していきます。ニセ科学の分野では、あまりそういう傾向の人が目立たないかもしれませんが、超常現象やオカルトに分類されている分野では、自分の頭で考えまくっている信奉者は意外に多いのです。

以前のエントリ*4で触れたように「人間は誰しもそれなりに合理的」ですから、複雑な論理で信念を強化している人になってしまうのです。

これはなにも新しい話ではなく、以前から疑似科学マニアの間では「知識がない状態で考えるのってあぶないんだよね」というのが、話題になることがありました。

つまりは…

今回掘り下げることのできなかった「知識は正しい方がよい」になるのですが、ここはちゃんと掘り下げたいですね。

*1:かなり尊敬できる"本物の"懐疑主義者です。

*2:まぁ懐疑という言葉に「疑」という漢字が含まれてもいますし。

*3:陰謀論者は異論を挟むでしょうけれども。

*4:[http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20080509/p1:title]