非合理な主張を信じている人は愚かなのか

 ずらずらと長い文章を書いているが、僕がタイトルの件について出してる結論は「愚かではない」である。

 

 僕はしばしば公に非合理批判活動をしている。過去には信奉者との議論も多くやってきた。だから、なぜ非合理を信じるのか?というトピックに関してもそれなりに考えてきたという自負はある。

 そんな中「結局、この人も欠如モデル*1なんですね」みたいな言及のされかたをしたことがある*2。僕としてはこの批判はピンと来ないのが正直なところであるが、せっかくなので考えておきたい。

 また、上から目線だ、バカにしている…などなど、批判者だというだけで信奉者を見下した態度だというステレオタイプで見られることも多い。そもそも僕は超常現象信奉者出身だし、信奉者を頭が悪いとか愚かだとかいう捉え方をしていないので、ここのところも説明しておきたい。

科学知識の多寡が非合理信奉への陥りやすさを決めるか

 そもそも世の中の大多数の人が豊富な科学知識など持っていないのではないだろうか。僕も科学知識が豊富かどうかと問われれば底辺レベルだと思う。

 科学知識の量に関わらず、軽信と思われるような行動を取る人もいれば、懸命な判断ができていると思われるような行動を取る人もいる。科学者であっても軽信と思われるような行動を取る人もいる。

 だから当然の事として科学知識が豊富であれば非合理を信じないとも思わないし、科学知識が足りないから非合理を信じるとも思わない。

 基本的に上記のような考え方をしているので「欠如モデル」を支持する立場ではない*3

頭の良さが非合理信奉への陥りやすさを決めるか

 またいわゆる「頭の良さ」も非合理信仰をするかしないかについての決定的な要因にはなり得ないとも考えている*4。むしろ頭の良い非合理信奉者が、非合理信奉を正当化する理屈(屁理屈)を上手に作り出せるとも考えている*5

 実際に自分の周りにいる人をリアルに思い浮かべてみればわかると思うのだが、おそらく自分の周りにいるほとんどの人が無理に探さなくてもなんらかの非合理を信じていると思う。僕の周りで言えば9割5分以上がニセ科学やオカルトに分類されるような非合理を信じているようである。しかし、僕が特別優秀でその人達が僕より頭が悪い、要領が悪い、未熟…などということは、決してない。

非合理信奉への陥りやすさに影響を与えるのは何か

 非合理信奉に陥る要因のひとつはヒューリスティックな情報処理である。ヒューリスティックな情報処理というのは、完璧ではないインプットから概ね妥当な結論を引き出すために人間が獲得した情報処理能力だ。僕らはこの能力がなければまともな社会生活を営むことはできない。しかし、同時に客観的な正しさを求めだしたときの弱点にもなる。結果として、基本的に人間は非合理を信じる隙を常に持っている。ヒューリスティックな情報処理は、その性質上避けられない認知バイアスを持つ。人間はもともと客観的なものをそのまま受け入れるのは苦手だとも表現できるだろう。

 また、そもそも世の中にあふれる無数の情報を受け取る際にひとつひとつ「真実性を検討する」などという人が居るだろうか。居ないだろう。そんなことは労力がかかりすぎて物理的に不可能だ。基本姿勢として「その情報の信ぴょう性はどれぐらいか」という懐疑の構えで話を聞くのは、自分の主義主張と違う情報や、それを信じることで不快な感情を抱かなければいけなくなることばかりが多くなる*6

 よって「誰もが」軽信の才能に満ち溢れている。非合理な主張が満ちている世界にいれば、自然の流れとして非合理な信念を持つことになるだろう*7

非合理信奉へ陥りにくくするにはどうしたらよいか

 当然、完ぺきな対策などない。ヒューリスティックな情報処理の弱点の知識、認知バイアスの知識、世の中に既にある非合理に関する知識、それらを回避するための方法論なんかを知っていれば、注意を払うべきタイミングに気付くことができるかもしれない。怪しいものに気付けるかもしれない。回避能力があがるかもしれない。

 科学の手法というのは、客観的で再現可能な知見を得るため、人間の間違いやすさを認めた上で、いつまでも間違いを信じ込みつづけないために編み出されたものだ。だから科学の手法を知ることも非合理信奉への抵抗力になるだろう。

非合理への抵抗力というのは知識であり技術だ

 このように考えていくと、非合理信奉に陥らない能力というのは普通に暮らしているだけでは身に付かないものだということもわかる。認知心理学や科学哲学の分野の知識は絶対に必要になるだろう。そしてそれらの知識をあやつる技術も必要になる。言い換えれば特定の分野の知識と技術が求められるということだ。

 非合理を信奉するのは当たり前のことでしかないが、ある特定の知識と技術を身につけていれば軽信への抵抗力になるということである。もちろん、その知識と技術を使おうと思うか、そして実際に使うかという態度の問題もある。

 いずれにせよ信じている人が愚かであるとか、信じていないから愚かでないとか、そういった見方はナイーブ過ぎる見方だろう。

蛇足

 ここに書いてあることというのは新規性も独自性もないことだ。まともな非合理批判者ならば既知のものであると僕は認識している。上記のようなことを知った上で信奉者をバカだとか愚かだとか考えるのならば、それは単純に間違っている人ということではないだろうか。僕は絶対にその意見を支持しない*8

*1:本来の定義とはぴったり来ないけれど、科学的に非合理な主張を信じるのは科学知識が欠如しているからだという立場になると思われる

*2:具体的に引用しようと思ったが見つけられなくなってしまった…

*3:ただ、騙されるかどうか、非合理を信じるかどうか、という視点でないならば、科学知識は豊富な方が良いとも思う。なぜなら物事の正当性を調べるときは科学知識は非常に役立つからだ

*4:論理的思考を一歩ずつ確認しながらでも進むことができるぐらいの知性は必要だろうけれど

*5:歴史を見るとコナン・ドイルなんかはその典型のように見える

*6:そう確証バイアスだ

*7:というわけで非合理な主張が満ちている世界は生きづらい

*8:特定の分野の知識や技術を持たないことをバカだとか愚かだとか評価するのならば、全人類がバカで愚かであろう。全人類に当て嵌めることのできる評価には何の意味もないと思う