ニセ科学批判者曰く「うわ、そんなことありえないよ」

どう「ありえない」のか

僕らが「ありえない」というとき、それは論理的にありえない*1とか、物理的にありえない*2なんて事をいってるんじゃない。ただ、それを「妥当な結論である」と判断するなんてありえないと言っているのだ。

だから、「科学は絶対じゃない」とか、「自然の理解は概念スキーマによっていてうんぬん」なんていったような、理解の根本に迫る哲学的でメタな問題提起はあんまり意味がない。必要なのは、その主張が十分に信頼できる又は妥当であるといえる根拠、ベタな根拠を示すことだ。

絶対主義実在論は違う

それでも「ありえない」なんて決め付けには反発を感じる人もいるだろう。「私は、そうであると主張したいのではない。ありえないという否定の仕方を否定しているのだ。」みたいな感じで。「ありえない」なんて話を聞いて、「あなたは自分が間違っている可能性を否定するのか」とか、「そんなことを言い切るのは科学絶対主義者だ」なんて反射的に言ってしまう人は、たぶん、実在論絶対主義というベクトルの異なる考え方の区別がついていない人だ。

極端な相対主義者じゃなければ、人間の認識とは別に現実世界(皆に共有される客観的世界)が存在することを否定することはないだろう。そういった世界が存在すると考えるのが実在論だ。対して*3絶対主義とは「絶対的な真実や基準が存在する」という考え方。

気に入らないのは絶対主義

「ありえない」に感じる反発は、科学的基準を絶対的なものだとして、何かを判断するのが気に入らないというところから来ているのだろう。つまり、科学的基準絶対主義という幻を見て、そこに反発を感じているということだ。このダイアリーでも何度か科学は絶対主義ではないということに触れてきた。

改めて書くこともあまり無いが、そんなに科学哲学に明るくない人であっても、科学とそうでないものを分ける基準のひとつとして「反証可能性」を取り上げたりする*4ことからだけでも、科学が絶対主義でありえないことは分かるのではないだろうか。なぜなら、科学的な仮説は間違を証明できる可能性を持っていなければならないのだから。

科学は実在論の立場から、自然の振る舞いを客観的に説明できる理論をつくり、その理論の精度を高めようとしているだけだ。絶対主義とは相容れない。

「ありえない」という判断は間違っているかもしれないけど

客観的世界が存在するのだから、その観察の結果である科学の成果を利用して、「ありえなさ」を判断しようという考えは合理的だろう。もちろん、そういった判断が常に正しいわけではない。人間は万能ではないのだから、間違うこともありうる。ある意味、間違うのも必然だ。ただ、間違いを見つけ出し、従来の判断を覆すものもまた、客観的世界観察の結果として見つかった事実である。不完全性定理だの、相対主義だの、哲学を持ち出す場面じゃない。


最終的には「ありえない」と判断するのも、それを覆すのも、観察に基づいた客観的な根拠をベースにするしかない。そして、こういった根拠に基づいた判断は「科学的」なのだ。

*1:論理矛盾。例えばAである且つAでないなんかは矛盾。

*2:意外に難しい話。 1gの爆弾で1京ジュールの熱を発生させるとかかな?

*3:ベクトルが違うので、対比するのもおかしな話だけど

*4:適切な線引き基準ではないと指摘されているし、その通りだろう。線引き問題の先端はベイズ主義のようだ → 「疑似科学と科学の哲学」。これもまた、絶対主義とは相容れない。