ビタミンK欠乏症問題

ビタミンK問題が話題になっているので、私も書かずにはいられなかった。

ビタミンK欠乏症

新生児は、ビタミンK欠乏になりやすい。ビタミンK欠乏状態になると、出血が止まらないような症状になる。脳内出血が起こった場合等は、死亡したり、重大な障害が残ったりする場合もある。通常、新生児にはK2シロップと呼ばれるビタミン剤を投与することで、ビタミンK欠乏を抑制している。

自然信仰と母乳育児の推進

粉ミルクに比べて母乳の方がよいという話は、医療の現場でも言われていることのようだ。国際機関や政府機関は積極的に母乳育児を勧めている。しかし、ビタミンKの問題については、粉ミルクの方が望ましい。人工的だとしてK2シロップを拒否する行動と、自然だとして母乳育児にこだわる行動が重なると、ビタミンK欠乏症の危険性は増す。

ビタミンK問題

「ビタミンK与えず乳児死亡」母親が助産師提訴」というニュースが 2010年7月9日 読売新聞から配信された。以下に内容を一部引用する。

生後2か月の女児が死亡したのは、出生後の投与が常識になっているビタミンKを与えなかったためビタミンK欠乏性出血症になったことが原因として、母親 (33)が山口市の助産師(43)を相手取り、損害賠償請求訴訟を山口地裁に起こしていることがわかった。
助産師は、ビタミンKの代わりに「自然治癒力を促す」という錠剤を与えていた。錠剤は、助産師が所属する自然療法普及の団体が推奨するものだった。

この事例は、ホメオパシー問題を追っている人の間では広く知られている。「助産院は安全?」というブログの功績である。

ホメオパス*1の認識

ニュースの配信をきっかけに、菊池誠さんのブログの記事「ビタミンK問題: 助産院とホメオパシー[追記は随時あり]」のコメント欄に情報が寄せられている。現時点で重要だと思われる内容を引用する。

生まれた翌日、退院の日、1ヶ月検診、この3回、赤ちゃんにK2シロップを飲ませていますよね。これは、頭蓋内出血とか、出血傾向の予防のためなのです。 それで、ビタミン剤の実物の投与があまりよくないと思うので、私はレメディーにして使っています。

うさぎ林檎さんの投稿:(由井寅子のホメオパシーガイドブック?)からの引用

「ビタミン剤の実物投与があまりよくないと思う」という自然信仰丸出しの思い込みからホメオパシーのレメディを用いているという話のようだ*2。この発言をしたという鴨原鴫原助産師は、善意からこういった行動をとったのだろう。しかし、善意だからといって許される行動ではない。

また、Takuさんによれば、今回の問題が明るみに出た後、ホメオパシー医学協会の雑誌では、以下のような弁解(?)が書かれているという。とにかくこれはひどい。

Vit- K30Cには現物質はなく、パターンしか含まれておらず、血管壁を壊すことはありえないこと、(逆にK2シロップの過剰投与は血管壁をもろくする可能性あり)、今回の原因推定としては、様々な問題が考えられること、また、両親のミネラル不足やマヤズム的問題、医原病が胎児に受け継ぐ事などもあること。

Takuさんの投稿:(日本ホメオパシー医学協会の会員向けの雑誌)からの引用

レメディのせいではなく*3、両親の健康状態が悪かった、過去生のカルマのようなものだ、両親の受けた現代医療が子供に悪い影響を与えた…という主張をしているようだ。つまりは、親が悪い、(マヤズムによれば)もともと死ぬ運命だった…とかいう話を分かりにくく表現しているだけである。

どこまで厚顔無恥なのだろうか。

*1:ホメオパシージャパン系列の…と言えるだろう

*2:ちなみに、これはホメオパシーのレメディの考えからはずれている。本来ならば、ビタミンK欠乏症と同じ症状を起こす物質を希釈する必要があるはずだ。

*3:もちろんレメディのせいではない。K2シロップを与えなかったのが悪いのだ。

なぜ有害な治療法も有効だと誤解されるのか

代替医療のトリック

代替医療のトリック』という本が話題になった。私も今までホメオパシーを例に代替医療の持つ問題を取り上げてきたが、この本を読めば私のエントリの多くは必要ないものと言える。既に多くの書評が発表されているようなので、肝心の内容についてはそちらを参照のこと。
全体的に良書といって間違いないのだが、あえてひっかかったところを書くとすれば、プラセボ効果に関するところ。私は『代替医療のトリック』で扱われているプラセボ効果の説明は、ちょっと行きすぎだと考えている。過大評価ではないか。プラセボ効果は確かにある。しかし、本来の意味での「効果」と呼んでいい効果は、この本で触れられているよりも小さいものだろうということだ。
このことについての私の理解は、過去のエントリ「誤用される「プラセボ効果」 - Skepticism is beautiful」 を参照頂きたい。

なんにでも効く

まず「なぜ「なんにも効かない」ものは「なんにでも効く」といわれるのか - Skepticism is beautiful」の補足から。

この記事で言いたかったのは、全く効かない治療法であっても、「効く」の基準さえ下げてしまえば効くように見えるということだ。例えば「その治療法で治ったという実例がある」「その治療法を使ったら、本当に体調がよくなったのだ」という基準は、非常に低い基準である。
ただ、非常に低い基準を採用することには副作用がある。それは、同じ基準で判断するのならば、なんにでも効くように見えるということだ。それをグラフで表現してみた*1
逆に考えてみると、なんにでも効くように宣伝されている治療法は、この落とし穴にハマっている可能性が高いともいえる。

教訓として単純化すると「なんにでも効くものは信用しない方が良い」という、よく聞く話となる。

有害でも

冒頭で取り上げた『代替医療のトリック』には、「瀉血」も取り上げられているようだ。この「患者の血を抜くことで症状を改善する」という治療法は、「なんにも効かない」どころか有害だった。しかし、多くの医者は瀉血を有効な治療法だと誤解していた。そこには、どんな問題があったのだろうか。

こういうことだろう。

有効な治療法であっても症状が悪化する人はいるし、有害な治療法でも症状が改善する人はいるということだ。治療というのは、改善と悪化のベースラインを上げたり下げたりするだけのものであることが多い。上の図で説明してみよう。Cさんは何もしなければ(縦軸 0のライン)病状が改善したはずの人だ。逆効果の治療を受けると、症状改善と症状悪化の境界線が上に上がってしまい(縦軸 20の赤ライン)、症状は悪化する。AさんとDさんは、効果的な治療をうけても、治療を受けなくても、さらには逆効果の治療を受けても症状が改善するということだ。
BさんはCさんの逆で、効果的な治療を受ければ改善に至るが、治療をしなかったり逆効果の治療を受けると悪化する。EさんはAさんの反対で、どんな治療を受けても悪化するということになる。

有効な治療も有害な治療も、一部を取り出せば好きなように解釈できるのだ。

効果を判定するのは難しい

ところで、特定の患者が治療を行わなくても症状が改善する患者だったのかそうでなかったのか、治療をした後に知る方法はない*2。今、同じ症状を持っている患者が同じ経過を辿るとも限らない。よく考えてみると、これは非常に難しい問題だ。ある特定の患者に対する治療結果がどう転ぼうとも、どうとでも解釈できるのだ。なんらかの理由で効くものだと思い込んでいたら*3、そこから抜け出すのは難しい。

正しい答えがはっきりと得られず、どうとでも理屈をつけられるとき、私たち人間はどこまでも間違う。逆効果の治療でも、AさんやDさんを見て効果があるとこじつけるかもしれない。効果的な治療でも、Eさんを取り上げて効果がない(又は有害だ)とこじつけるかもしれない。私たちはこのグラフのような神の視点を持っていない。

さて、この問題の解決方法を考えてみてほしい。

*1:正しくは棒グラフを使うべきものだったかも

*2:もちろん、治療を行わなかったのならば治療の効果を知ることはできない。つまり、ベースラインは誰も知らないということ。

*3:バイアスがかかっていたら

なぜ「なんにも効かない」ものは「なんにでも効く」といわれるのか

通常の医薬品は特定の病気や症状に効果的だが、なんにでも効くというわけにはいかない。しかし、代替医療の多くは様々な病気や症状に効くとされる場合が多い。なぜそんなことが起こるのだろうか。

その理由は「効く」の基準が違うというところにあるのではないだろうか。図のようにプラセボレベルの低い基準で効くと判断するのならば、なんにでも効くように見えるだろう。

オッカムの剃刀の理解 3段階

非合理批判の場では、「オッカムの剃刀(かみそり)」という考え方が登場することがある。オッカムの剃刀とは、以下のような考え方である。

現象を同程度うまく説明する仮説があるなら、より単純な方を選ぶべきである。


Wikipediaオッカムの剃刀]」より

LEVEL 1(オッカムの剃刀は科学的真偽の判定の手段)

オッカムの剃刀でそぎ落とされる仮説は、科学的に間違いであると考える。

LEVEL 2(オッカムの剃刀は科学的真偽の判定とは無関係)

オッカムの剃刀という考え方は、真偽を追うための戦略のひとつにすぎない。
剃刀にそぎ落とされるかどうかは、仮説が科学的に正しいかどうかとは無関係である。
よって、いくつかの科学的仮説の中から一つの科学的仮説を選択する手段として使うのは誤りである。

LEVEL 3(オッカムの剃刀は科学的真偽の判定として有効)

科学的に「正しい」「間違っている」とは、蓋然性*1の高低を言い換えたものに過ぎない。
LEVEL 2の考え方は「科学的に正しい(間違っている)」という概念に、現実的ではない精度を求めているように見える。
オッカムの剃刀が真偽と無関係だといえるのは、あくまで哲学的視点*2であって科学的視点ではない。
例えば、相対性理論量子力学も科学的仮説として「正しい」が、哲学的な視点で真とはいえない*3

番外(オッカムの剃刀なんて言葉は使わない)

言葉の解釈とか定義、科学哲学などの問題に巻き込まれるのが嫌なので、オッカムの剃刀という言葉は使わない。

*1:もっともらしさの度合い。どの程度、正しいという根拠があるか、間違っているという根拠があるか。

*2:ここで言う「哲学的視点」は、科学的方法論に批判的な古典的科学哲学を表す。最近の科学哲学ではべイズ推定などの考え方を取り入れ、科学的手法がある程度妥当な方法であると判断しているようだ。

*3:下手すると、明らかに限界があるということから、哲学的には偽といえるかもしれない(どう解釈すべきかはよくわからないけど)

非合理批判の諸段階

ニセ科学批判などの非合理批判活動は様々な人が行っている。批判のやり方には個性があるが、違いはそれだけにとどまらない。そこには批判レベルというべきものがある*1

LEVEL 0(普通の人)

信じるも信じないも場当たり的。

LEVEL 1(一歩踏み出す)

非合理的なことは何となく否定している。
根拠を述べずになんとなく批判を行う。

LEVEL 2(否定論者とラベルづけされる)

なぜ否定できるかを合理的に説明することができる。
正しいことを言っているのだからそれで良いと考える。

LEVEL 3(懐疑論者と呼ばれ始める)

なぜ合理的な説明を受け入れられない人(ビリーバー)がいるのか不思議に感じる。
どんなに合理的な説明を尽くしても理解してもらえないことに悩む。

LEVEL 4(懐疑論者の中でも注目されはじめる)

なぜ人間はビリーバーになってしまうのか理解している。
どうすれば理解してもらえるのか試行錯誤する。

LEVEL 5(変な人扱いされる)

ビリーバーを説得することとマインドコントロールの違いについて思いをはせる。
説得が成功したとして、自分のやっていることはダークサイドではないのかと悩む。

*1:実は単なる思いつきに過ぎないが、「分かりやすい文章」みたいな本には「言い切れ」と書いてあったので言い切ってみる。批判なり改変なり話のタネにしていただければ。