悪しき相対主義
というわけで、前のふたつのエントリから、科学の方法として妥当な線で主張を行っているのならば、まともな相対主義を改めて持ち込む必要がないという結論に至ったんだけど、納得してもらえたかどうかはちょっと不安。まあ、あんまり気にせず、相対主義に関するエントリの後編として、もっともよく見かけると思われる「行き過ぎた相対主義」について書くよ。
行き過ぎた相対主義
相対主義的な考え方をどこまでも推し進めると、「人間は絶対的な真実には到達できない。あらゆるものは相対的であるから、どのような主張も否定できない。」なんて考え方に陥っちゃうんだよね*1。絶対的な真実でなければ皆同じって考え方に繋がる。まさに糞でも味噌でも一緒にしちゃう主張だよね。糞味噌一緒問題は『はてなダイアリー』とか『Archives » ページが見つかりませんでした』が面白いかな*2。
現実から離れて、哲学的だったり論理的だったりする事しか考慮していないと、こういう問題に簡単に入り込んじゃう。少しでも現実に目を向けてみれば、絶対的な真実がわからなくたって、何かを判断することはできるという結論にしかならないってことは分かるはずなんだけど…。
絶対的な真実を知っている人も、何かを判断したことがない人もいないよね。絶対的な真実なんてわからないのに、なぜ僕らは判断できるのだろう?それは、全ての事が程度問題だから。絶対的な真実が不明な状態でも、確からしさ(尤もらしさ、蓋然性)は評価できるし、誰でも多くの場合にそういった確からしさを根拠に判断を下しているはずなんだ。そうだよね?
行き過ぎた相対主義の自己矛盾
「絶対的な真実はわからないから、どのような主張も否定することはできない」という行き過ぎた相対主義の立場を採用して、「否定すべきでない」という主張をした場合は、自己矛盾に陥ってしまう。なぜなら、その時点で誰かのしている否定的主張を否定してしまっているから。
同じ立場から「「否定すべきでない」というのは間違いだ」という意見も「否定すべきでない」ということになっちゃう。「「「否定すべきでない」というのは間違いだ」というのは間違いだ」・・・と延々に続く無限ループといってもいいかも。
行き過ぎた相対主義者は何かを主張することで自己矛盾に陥るか、口を閉じて何も主張しないかしかないんじゃないかな。もし、自己矛盾じゃないと強弁するのならば、それはもう「行き過ぎた相対主義絶対主義」というか「自分の意見絶対主義」になっちゃうよね。
「他のものは全て相対的で何が正しいともいえないが、自分は正しい。」という主張だからね。
自己矛盾の取り繕い方
さすがに、ここまで酷い主張をする人もまずいないだろうとは思うんだけど、どうかな。
現実問題として行き過ぎた相対主義を主張する人は、たいていまともな相対主義のフレーズと行き過ぎた相対主義の間を行き来しながら、ふらふらした主張をし続けるか、具体的な話に絶対に入り込まないようにすることで、自己矛盾を隠そうとし続けるみたい*3。
一連のエントリで相対主義を概観してきたから、ふらふらした主張をし続ける人を相手に議論をする場合は、どこをふらふらしているか確認してみるのといいかもしれないね。
具体的な話に絶対に入り込まない人は、一部で「メタぶりっこ」なんて表現されてたりするけど、面白い表現だなって思うよ。メタ視点での話のように見えても、具体的な話(ベタ)ができないんだったら、それはメタ視点のふりをしているだけで、メタ視点じゃないからね。メタ視点というのはベタを見る視点じゃなきゃいけないんだから、ベタが見えてないのはメタ視点じゃないってこと。
行き過ぎた相対主義の主張は科学より寛容か
一見、行き過ぎた相対主義の主張は耳触りが良くて、平等で寛容に見えるんだけど、ここまで見てきたように、全然そんなことはないんだよね。「ダメな考え方だけど平等で寛容」ってわけじゃないんだよ。相対主義という自分の立場を(不当に)特権的位置に据えて、無敵の論理で他者批判をしているだけというのが実態。
対して科学はといえば、事実に基づく根拠さえきちんと示せば、どんな主張に対しても門は開かれている。「事実に基づく根拠」が要求されるから、科学的方法は寛容じゃないという言い方はできると思うけど、その制限をなくすということがどういう意味を持つかは考えた方がいいと思うな。そのレベルの寛容さで何を実現したいのか?とかも。