相手の態度はコントロール不可能ではない

批判されて、なるほどわかりました、となる人は少ない - カナかな団首領の自転車置き場と、ぽりあんてなというエントリを読んだ。どちらも、批判や議論、説得のコミュニケーションに関する話です。ニセ科学批判の話が前提にある模様。

批判というコミュニケーションは失敗し続けてきた

「批判されて、なるほどわかりました、となる人は少ない」では、批判したからといって相手がそれを受け入れることはそんなに期待できない。でも、ギャラリーへの影響を考えると無意味ではない。といったような、もっともなことが書かれています。
この話がもっともな話であるということは、批判というコミュニケーションが相手の意見を変えるという視点で見た場合は失敗し続けてきたということを意味しています。

新たな対処が必要なのではないか

「明るい懐疑とコミュニケーション」では、説得のやり方次第で、相手に与える影響が違うということに焦点を当てています。結論は以下のような感じで、とても納得できる話です。

だとしたら、心理的に相手に受け入れられにくい「相手が誤っている」という前提を杓子定規に採用するのは、ちょっと損なのではないかなあ、などと思ったりするわけです。

要は、もしもその相手とコミュニケーションをとりたいと本当に願うなら、とりたいと願った方がその方法を工夫すべきなんじゃないか、ということが言いたかったのでした。

ぽりあんてな

私も、以下のように書いているように、説得の方法は非常に重要な論点だと考えています。

健康な人間は誰しも、自分をダメな人間だと思わなくて済むように動機付けられています。自分を無能だと思いたくない気持ちに、無能であるという指摘をぶつけ、「認知的不協和」を起こしたところで問題が解決することはあまり期待できないと思います。

あなたのいう常識は本当に常識なのか - Skepticism is beautiful

確かに「批判されて、なるほどわかりました、となる人は少ない」のは間違いないですが、その原因は批判のやり方にだって問題があるからではないか?ということです。

原因はコントロール可能な問題に帰属すべき

いえ、批判対象である相手に問題がないという意味ではありません。しかし、問題が相手側にあると考えた場合、取れる対処法は殆どなくなってしまいます。つまり、問題はコントロール不可能な要因にあると考えているということです。
相手との有意義な議論を成り立たせようとするのならば、まずは自分が取れる手段を考えてみることが必要でしょう。つまり、コントロール不可能な問題は棚上げし、コントロール可能な問題に対処しようということです。


最後までコントロール不可能な問題が原因で、有意義な議論は成り立たないかもしれません。それでも、議論を捨てる前にやれることはあるかもしれません。