「ニセ科学批判」批判の前に科学をどうぞ
昨日の話の続きです。「菊池先生と天羽さんへ : 社会学玄論」こういうのは、科学者でも哲学者でも…そもそも学者でもない私のような大衆の一人こそ反応すべきだと思うのである。
科学(的方法論)絶対主義だったら議論にもなっていない
正直なところ、科学的方法論を絶対視してその立場からものを言っていいのなら、そんなに楽なことはない。「科学の要件を満たしていないから、その主張は認めることができない」といえばTHE ENDである。科学の土俵の上では、ニセ科学*1は門前払いである。
ニセ科学批判は科学のメタレベル議論
ニセ科学批判というのは、実際のところ科学のメタレベルの議論だという見方をすべきものではないだろうか。ニセ科学批判をしていると、信じている人に「どう伝えるか」というのが、大事なポイントになってくる場合も多い。そこでは、なぜ科学的方法論が有用か?というポイントを押さえておく必要がある。
つまり科学を外から見た視点がなければいけないということになるわけだ。
私は、「ニセ科学批判」批判をしたいのなら、科学のメタレベルではなく、科学のメタレベルのメタレベルで話ができるぐらいのスキルがないといけないと思う。
なぜ科学なのか
結論を言えば、他にもっといい方法がないからである。人間の知識は有限であり、その中で現実を把握するために最もうまくいっているのが「科学」であるというだけで、代替の方法があるのならば、そっちでも構わない。
科学哲学が言うように科学が未熟な方法だと評価することもできるだろうけれど、それ以上のものがないのならばできる範囲のことをやるしかない。それだけのこと。
科学ってそんな特別なもの?
私は「ニセ科学批判」批判の文脈で科学批判なんかが出てくると、科学ってそんなに特別なものなの?という疑問がいつも浮かぶ。
科学的方法論のポイントは、様々な仮説の中から信憑性のないものや間違ったもの、原理的に信憑性の評価できないもの*2を合理的思考で取り除くというところにある。
非合理や単なる憶測、思いつき、思い込みは、そういった過程で脱落していく。
「科学」というラベルを外して、こういうところまで入り込めば、巷の安易な科学批判があまりにも空虚だということに気付くんじゃないだろうか。「なんだ科学なんて、当たり前のことじゃん」といった感じで。
「ニセ科学批判」批判をしている人だって、合理的に考えることに反対したり、信憑性のないものを認めよと主張するつもりなわけじゃないと思うし。