僕たちはなぜ水伝なんかに悩まされるのか
水もごはんも桃も梨も答えを知っているとか
最近、TwitterやFacebookで、僕らにとっては懐かしい「ありがとう」「バカヤロウ」実験が話題になっているそうです*1。詳しくはこちらのエントリなどを参照のこと→『桃は答えを知っている - 男の魂に火をつけろ!』。数年前はごはんを使った似たような実験もどきが話題になりましたが同じようなものですね*2。
「水からの伝言」として知られる江本勝氏の一連の主張は、本当に突拍子もないものです。ホメオパシーなんかよりさらにどうしようもない主張なので、あえて話の種として使わせてもらおうかと思います。
帰属の話
前回*3、スキーマの話を出したときに、蛇足として自分の言動の理由すら推測するしかないということを書きました。つまり、僕らは誰の言動であっても、その真意を直接理解することはできず、推測するしかない存在です。さて、そういった言動の理由を見つけることを、心理学では「原因帰属」とか、単に「帰属」と呼びます。推測に過ぎないので、間違う場面もたくさんあります。これを「帰属の誤り」とか「誤帰属」と呼びます。
特に僕らは感情の出所の帰属が苦手です。おそらく、推測する際に筋道通った原因にこだわるあまり、感情の強さに見合った「合理的な」原因を探してしまうためでしょう。感情ですから、必ず合理的な原因があるとは限りません。
根拠を否定されても信じる人々
さて、僕は4〜5年前ぐらい前に水伝の信奉者達と色々な話をしてきました。素朴な水伝信奉者がたくさんいました。水伝の提示する実験もどきをまともな実験だと勘違いしている人もそれなりにいたものです。水伝の話はすばらしいと感じていたようです。
では、水伝をすばらしく感じてしまったのはなぜでしょうか。すばらしいと感じた人が感情を何に帰属するかという話です。水伝は便利な理由づけを用意してくれています。よい言葉を使うのが正しいと「科学(モドキ)」の「実験(モドキ)」で証明されているということです。無機物の水にすら影響を与えるほどの、自然の原則がそこに存在するというのは、感動に値する話でしょう。
しかし、僕のようなおせっかいな人たちは、水伝のいう「科学」や「実験」がニセモノであることを指摘します。便利な帰属先を失い、すばらしいと感じた感情は宙に浮いてしまいます。ちょっと「当然感動するだろう度」は落ちますが、そもそも水伝のメッセージがすばらしかったと帰属する人もいるでしょう。
しかし、水伝の表面上の話というのは「よい言葉を使おう」「悪い言葉は使わないようにしよう」というメッセージです*4。ちょっと立ち止まってみると、わざわざ水に教えてもらうまでもなく、誰でもその方がいいと知っていることでしかありません。僕のようなおせっかいな人たちは、それも指摘してしまいます。
それでも、すばらしいと感じた感情は残ります。結果として色々な言い訳をつけてしまうという状況に陥ります。道徳としては成り立つとか、科学の方が間違っているとか。そうでなければ感情の帰属先がないからというわけです。
僕は、根拠を否定されても信じる人々をつくっているのは、こういった感情の誤帰属問題ではないかと考えています。そして、おそらく水伝から受けた感動の本当の源泉は「美しい結晶写真」であった人も多かったのではないかと考えています*5。
水伝なんかに悩まされるのは、こういった帰属先探しが背景にあるためではないかということです。
信奉者じゃなくてもそんなに変わりません
僕は超常現象懐疑論者として活動しています。世の中の雑多な話題にふれていると、突然オカルトアンテナがピッっと反応することがあります。「なんか怪しいぞ」という直感が働くのです。こんなとき、最初に直感(感情)があり、オカルトアンテナが反応した合理的な理由(帰属先)を探しはじめるという順番だったりするわけです。こういった懐疑的な行動ですら、信奉者の帰属先探しと同じような過程を通る場合があります。
僕はこの後付の帰属先探しをしてしまうこと自体に問題があるとは考えていません。ただ、感情の帰属先を探すとき、僕たちは間違った原因に飛びつきやすいということに留意する必要があるということです。感情の強さに見合うだけの理由が必要だと考えてしまう思考のバイアスに陥ることもあります。僕がこんなに怒っているのは、それだけ原因(相手)が邪悪だからだ…なんていうのはよくある間違いです。さらに言えば、感情の帰属先を探す必要などないという判断もありなんだということを知っていることが大切でしょう。
トンデモさんは自分に当てはまる言葉で他人を批判する
スキーマ
認知心理学では、物事を理解するために利用される知識の枠組みのことをスキーマ(schema)と呼ぶ。人は様々な経験の中で様々なスキーマを形成する。そして、話題によってさまざまなスキーマを切り替えてもいる。特に難しい話ではなく、誰もが無意識にやっていることだ。そして、何かを理解するためには必ず必要なことですらある。
なぜならば、理解に必要な情報が十分そろっている物事など、まずないからである。親しい家族との日常会話でも、僕らは家族の持つ前提知識やこれまでの言動を元に意味を推測する(つまり、スキーマを利用する)。そういったものが全くない他人の場合、真意を理解するのは難しい。
新しい分野の本を読むときにスキーマの存在を感じる人もいるかもしれない。その分野の1冊目に読む本はゆっくりとした速度でしか読めないが、5冊や10冊ぐらい読むと、非常に早く読むことができる。これはその分野についてのスキーマが出来上がったために、理解が楽になった効果だ。
蛇足だけれど、自分の言動すら、僕らは「自分はこういう人間だ」というスキーマを元に推測しているに過ぎない*1。その方法を他人に適用したのが、他者理解になる。
トンデモさんは自分に当てはまる言葉で他人を批判する
オカルトや超常現象、ニセ科学などの議論が続くと、「トンデモさんは自分に当てはまる言葉で他人を批判する」と呼ばれている投稿が必ず現れる*2。
この原因は、自分を理解するためのスキーマを使って他人の投稿を読むために起こっているものだと考えられる。「こんなことを言うのは、こういう背景があるからだろう」という推測、つまり行間を読むのは、自分のスキーマをベースに考えているわけだ。「自分がこんなことを言うのは、こういう場面でだけだから…」というわけである。なら、自分もそういう方法(あくまで推測)で応酬してやろうとして、トンデモさんが応酬のための批判をはじめると「トンデモさんは自分に当てはまる言葉で他人を批判する」になる。
先に書いたように、自分のスキーマを使って他人の主張を理解しようとすることは、誰でも日常的に行っていることで、これ自体はなにもおかしなことではない。しかし、トンデモさんの場合、そのスキーマが他人(主に批判者)から見て特殊なものであるため目立つというわけだ。
「奇跡」のジレンマ
日常用語で出てくる「卓越した結果」という意味ではなく、本来の意味の「奇跡*1」は、それ自体がジレンマを抱えているという話。僕はこのことを「奇跡のジレンマ」と呼びたい。
超常現象と認められるためには
僕は、超常現象の調査なんかをやったりすることがある。調査結果はできる限り論理的で妥当な内容にしようと努力している。つまり蓋然性*2の高い結論を求めているということだ。僕は否定のための否定はしたくないのだ。生真面目な僕は、どのような条件が揃ったら「これは超常現象である」と断言できるだろかと考えることがある。
ここで、仮に超常現象を「自然現象を超えた現象」とおくと、ほぼ「奇跡」と同じ定義となる。ただ、この定義を採用した場合に問題が発生してしまう。
ジレンマ
それは、どんなに低確率の事象であっても、「超常現象である」という結論よりは蓋然性が高くなってしまうということだ。たとえば、宝くじを1枚だけ買い、それが必ず1等になってしまう。しかも、それは3度やって3度とも起こった…といった話があったとする。
インチキをしていないのならば、これはもう超常現象と呼んでいいものだろうと思ってしまう。しかし、本当に論理的に蓋然性の高低をうんぬんするのであれば、「偶然である」とか「誰もわからないインチキを行った」という結論を選ぶしかない。
もっと極端な話をすれば、未発見の自然法則があり、その法則を考慮に入れれば必然的に起こったことだという結論ですら、「超常現象である」という結論よりも蓋然性が高いということになるだろう*3。なにせこちらは、論理的に起こりうる自然現象内の仮説である。
『最強のクリティカルシンキング・マップ』
著者の道田泰司様より最強のクリティカルシンキング・マップ―あなたに合った考え方を見つけようを献本いただきました。ありがとうございます。
道田さんとの出会い
僕は懐疑論者を自称しているわけなので、懐疑的思考とか科学的懐疑主義とかそういったことを意識する場面が多い方です。そんななかで、たぶん6年ぐらい前に初めて「クリティカルシンキング」という概念を知りました。今思えば、道田さんが本書で「教育系クリティカルシンキング」と分類しているものだったと思います。
その後「心理学系クリティカルシンキング」や「論理学系クリティカルシンキング」「哲学系クリティカルシンキング」と分類されているような本もいくつも読みました。クリティカルシンキングについてはそれなりに詳しくなったと言っていいと思います。
その頃に出会ったのが道田さんのWebページでした。ここでは道田さんの論文などを読むことができます。
http://www.cc.u-ryukyu.ac.jp/~michita/jiko.html
ここで、共感・対話とクリティカルシンキングの関係について語っていることに、心動かされた覚えがあります。私が求めていたクリティカルシンキングでした。日本人のクリティカルシンキング研究者=道田教授という図式が確定した瞬間です。
本の話
今回の本は今までに無かったクリティカルシンキングの本です。僕はとても道田さんらしい本だと感じました。
巷のクリティカルシンキング本の多くは、クリティカルシンキングの一面的な話しかでてきません。この本では様々なクリティカルシンキング本を引用しながら全体を概観するマップを作っていきます。
クリティカルシンキングを探求する姿の実例を道田さんが示しているような印象も受けました。その中で「よりよい思考=クリティカルシンキング」を浮かび上がらせます。
しかし、この本の中で僕がすばらしいと思うのは、なんといっても6章「学びを深める」のところです。この章は他のクリティカルシンキング本を読んだだけでは、ほとんど出てこない話です。不正確な表現もありますが、ざっと列記してみます。
- クリティカルシンキングは本来難しいことだ。
- でも誰でもどこかではやっていることだ。
- クリティカルシンキングは合理的で反省的な思考方法だが、反省しすぎでは問題解決につながらないことも、問題を悪化させることもある。
- 開かれた心が必要。
- 何かを決定するためには枠組みが必要。
- 常識を疑うためには、別の常識の枠組みが必要。
- クリティカルシンキングは必要なときに使えばよい。
- 自分にあったクリティカルシンキングがある。
ここに列記したことについて、何か感じた方なら是非読んでほしいと思います。
追記
過去のエントリでも、クリティカルシンキングのおすすめ本を紹介しています。全くクリティカルシンキング関連の知識がない方はこっちの方を先に読まれた方がよいかもしれません。必読:批判的思考を知るための3大オススメ本 - Skepticism is beautiful
『検証 大震災の予言・陰謀論』
文芸社の高橋様より『検証 大震災の予言・陰謀論』を献本頂きました。ありがとうございます。
本書は「超常現象の謎解きシリーズ」など、超常現象の懐疑的調査が得意なASIOSメンバーと、大震災以降、国際ニュースを追い続けてきたアンドリュー・ウォールナー氏によって書かれた、陰謀論 検証本です。
目次は「ASIOSの書籍紹介ページ」を参照してください。
3.11の東日本大震災以降様々な陰謀論が渦巻いたことは、誰しもが見てきたことだと思います。また、武田邦彦氏のような著名人も、おかしな話をばらまいています。超常現象界隈では予言者が騒ぎ立て、ニセ科学と呼ぶべき主張も色々と表に出てきました。
そんな様々な話を「主張」と「真相」といった形でまとめたのが本書です。ASIOSの書籍らしく、非常に読みやすい本です。また、山本弘さんの地球深部探査船「ちきゅう」インタビュー記事など、陰謀論にさほど興味がなくても面白い話も含まれています。
本書の特徴として、ピックアップされている主張の内容は、科学寄りではなく疑似科学ウォッチャー寄りになっています。ASIOSの得意分野に近いところですから。しかし、なんといっても一番の特徴は、一般向けの和書で類をみない参考文献の多さでしょう。
翻訳ものの一般書は比較的参考文献が載っているものが多いのですが*1、日本の一般書は参考文献リストがないことがお約束にでもなっているかのような惨状です。このおかげで、著者の主張が何を根拠に言っているものなのか、再検証を行いたい場合に非常に苦労するのが常です*2。
本書の場合は、そういった心配をする必要は殆どないでしょう。大震災以降、無根拠な主張を根拠に不安を募らせているひと、怒りを覚えているひとが沢山います。中には本書の「真相」が疑わしいと思うひともいるかもしれません。
安心してください。著者らの主張の根拠はちゃんと参考文献としてあげられています。自分で再検証することができます。
『もうダマされないための「科学」講義』にダマされるな
著者の一人である片瀬さんから献本頂きました*1。ありがとうございます。目次は以下。
1章 科学と科学ではないもの 菊池誠
2章 科学の拡大と科学哲学の使い道 伊勢田哲治
3章 報道はどのように科学をゆがめるのか 松永和紀
4章 3・11以降の科学技術コミュニケーションの課題 平川秀幸
付録 放射性物質をめぐるあやしい情報と不安に付け込む人たち 片瀬久美子
出版社の紹介にダマされるな
この本、出版社の宣伝を読む限りは、「科学とは何か」を今まであまり意識してこなかった人、「科学」をあまり知らない人(以下「一般人」と表記します)向けの本なのですが、そこにダマされそうになりました。そういった方が読むと、話題についていけないか、曲解しそうな感じの部分が多いでしょう。
そんな優しい本ではないのです。ハードボイルドです。取扱注意です。むしろ伊勢田さんの2章ででてくる「モード1科学*2」を知っている層(以下「専門家」と表記します*3)にこそ有用な内容です。なぜなら「モード1科学」を知った上で「モード1科学」を超えたところの話がメインになっているからです。
「科学」とか「科学哲学」とか、興味を持って本を読んだりしたことのない人にとっては、3章と付録が読みどころになります。
科学を伝えていく側の指針として
菊池さんの章の内容は、今まで科学というものを意識していなかった層でも、是非とも理解してもらいたいことがたくさんでてきます。しかし、短い文章の中ではどうしても説明不足になっています。菊池さんの章に書いてあるようなことは、専門家が、そして私たちが、さまざまな場面で、噛み砕いてていねいに説明していく必要があるでしょう。
そのとき、社会の中に科学をどう位置づけていけばいいか、伊勢田さんの章の内容が役立つと思います。科学を伝えていく側は、モード2科学について理解していた方が良いのは、間違いなさそうです。
最終的に一般人とのコミュニケーションをとる場合、平川さんの章が役に立つでしょう。
これらの章は、先に書いたように、書かれたままを提示して科学コミュニケーションとするにはつらいというのが事実ですが、科学コミュニケーションの指針として大いに使える本だといえます。
不安に悩まされている人は
一般人は、松永さんの章と片瀬さんの章だけを読むことで混乱せずに済むでしょう。
松永さんの章で取り上げられている食の問題は、毎日の生活の問題です。マスメディアからは、さまざまな情報が入ってきますが、それをどう受け止めたらいいか。生活に密着した一生モノの知識になることは間違いありません。
今、まさに直面している放射性物質と健康に関する話題は、片瀬さんの章で扱われています。放射性物質による健康被害対策として、最近話題になっている方法が、身も蓋もなく否定されています。不当な扱われ方をしているわけではないんです。本当に身も蓋もなく否定できるものなんですから。気分を害するひともいるかもしれませんが、そういった方は、自分が何を求めているのか考える必要があるでしょう。色々と話題になっているけれど「本当のところどうなのか?」を知りたい人にとっては、とても有用です。
今、誰が読むと良いのか
東日本大震災以降、ニセ科学(ホメオパシーやらEM菌やら放射能対策グッズ)が広く一般人に受け入れられているという印象を持っている人は多いでしょう。この状況をきっかけに、専門家の中にもニセ科学のまん延に危機感を持った人がいるとおもいます。これまで非合理批判なりニセ科学批判なりをしてこなかった人たちが、立ちあがってきている場面ではないでしょうか。
僕は、こういった層にこの本を読んでもらいたいと考えています。なぜなら、専門家が得意な「科学のやり方(モード1科学)」では目の前の問題に対応できないからです。専門家にとって、ニセ科学は科学的な誤りを簡単に見抜けるものですし、誤りである根拠も簡単に用意できるでしょう。科学的な正誤の問題ならよかった。でも、問題の焦点はそこにはないのです。
もちろん、専門家による情報提供はとても重要ですし、有難いものです。しかし、問題点を最も伝えたい相手である一般人とのコミュニケーションの問題に立ち入ると、正しい情報と詳しい説明だけではどうにもなりません。そこでこの本の内容が役立ってくるはずです。
本当だったら1+2+4章と、3章+付録という2冊に分かれていればよかったのにと僕は思いました。その方がターゲットが絞り込めて、格段に宣伝しやすいですから。
というわけで、1番のお勧めは、最近の情勢に危機感を持ち、積極的に情報発信をしていかなければならないと思い始めた専門家ということになります。いま、科学の情報を必要としている一般人は3章と付録を読み現在の問題に対処する。科学の考え方の基礎は他の本で身につけてから1+2+4章をじっくり読むという読み方がよいのではないでしょうか。
信奉者の説得についての経験談と思うこと
何度か語っていることではあるけれど、僕は超常現象信奉者として、後には超常現象懐疑論者として掲示板上での議論を続けていた。話題は超常現象だけにはとどまらず、俗にいう「ニセ科学」の議論になったことも沢山ある。
そういった歴史の中で、信奉者に説得を行ったことも少なくない。オープンの場で行ったこともあるし、メールでのやり取りのこともある。これから、何度か説得についての僕の思いを書いていきたいと考えているのだけど、はじめに、僕が信奉者の説得についてもっている印象を書いてみたいと思う。当然、客観的事実とか普遍的な原則とかを話したいわけではなく、あくまで経験談であり、印象論にすぎないことには注意してもらいたい*1。
説得の受け入れやすさ
僕は傲慢にも「科学的考え方の啓蒙をするんだ」という思想を持っていた*2。だから、信奉者とのコミュニケーションが説得になるのも自然なことだった。結果、様々な人に対して説得しようと試みてきた。その中で思うことがある。それは、年齢や性別によって説得の受け入れやすさが違うという傾向があるのではないかということだ。
ざっくり言えば、年齢は若い方が説得を受け入れやすい。そして、女性の方が説得を受け入れやすいということを感じた。ここにはなんらかの理由があるのかもしれないけれど、特にアイデアもないので印象を語るだけにする。ただ、40代以降の男性を説得対象に選ばない方が良いだろうということだけは言ってしまおう。*3
信奉者の説得が成功するなんて稀なことだ
説得に関して言っておかなければいけないと思うのは、説得が成功することなんてまずないということだ。もし、説得に挑戦したことがある人なら嫌というぐらい感じていることだと思う。これについては、きちんと理由があると考えているし、「説得が成功しないなら説得コミュニケーションにたいした意味はない」という考えは間違いだと思っている。ただ、この話はまた次の機会にしたい。
逆に驚くべきことだと思っているのは、説得に成功したことも何度かあるということだ。ここにそのやり取りを公開することはできないのだけど、確かに考えを変えてくれたようだった*4。
僕は元超常現象信奉者で「本当のことを知るためなら自分の今の信念なんてなんぼのもんじゃ」と考えていたにも関わらず、信奉者から懐疑論者に転向するのに年単位の時間を要した。信念を変えるのはそれほど難しいことなのだと思っている。それなのになぜ、僕から説得されたぐらいで信念を変えてしまうことができたのだろう。もちろん、強固な信念をもった信奉者ではなかったということもあるだろうけど、それだけじゃないのではないか。
信念を変える足掛かりがあるのかもしれない
僕が直接的な対話で説得に成功した人というのは、例外なく育児中の母親だった*5。子供の健康や幸せを思う気持ちから自発的に色々なことを調べ、ニセ科学やニセ医療にはまった人たちだったのだ。
たぶん、母親たちの子供を思う気持ち*6が、自分の信念を覆すときの支えになったのではないか。僕はここに答えがあると考えている。それは信念を変えるための足掛かりをもっているということだ。
多くの人は、自分の信念を否定されると人格を否定されたと感じてしまう。批判活動なんてことをしているとよくぶつかる話だと思う。だけど、これは当然のことだろう。信念というのは、自分が自分であるという確かな足場なんだから。足場を崩されて宙ぶらりんになることに反発するのは当然のことだ。
しかし、育児中の母親は「子供のため」という足場さえ守れるのならば、他の信念を変えることもできるのではないだろうか。
崩さなくて済む足場をつくろう
育児中の母親の説得ができたというのは、結果だけで見れは成功だった。でも、こう考えていくと危うさも残ったままだと気付く。彼女たちが子育てから解放されたとき、人知れず「崩れない足場」もなくなってしまうことになる。
懐疑論者は「事実に拘ること」「証拠の強さに応じて信じること」「不正確な認識、間違いは継続的に修正すること」なんかを足場にすることで、意見を変更しても足場が崩れない状態を作ることができている。だからこそ、新たな証拠が今まで信じていたことを覆しても耐えることができる*7。
僕が懐疑主義とか、科学的思考とか、クリティカルシンキングを推す理由というのは、こういうところにある。自分の信念にとらわれて硬直してしまうことを防げる。つまり「自由」のためだ。
*1:それでも、なんらかの意味があると考えているから公開するわけなんだけど
*2:そして今も持っている。ただ「啓蒙」という小難しい言葉が自分の考えに合っているのかは、未だによくわからない
*3:不快感を生むだけで何のプラスの意味もない言及のため反省して消しました。
*4:絶対数は少ない。もちろん、表面上考えを変えているように見えてただけという可能性もあるけど、僕はそう思っていない
*5:「議論をギャラリーとして見ていて、考えを変えました。」と言われたことも何度かあるけれど、その人たちは含まない
*6:周りからのプレッシャーみたいなものもあるかもしれないけれど…
*7:とはいえ、そこまで完璧な人はいなくて、新たな証拠を受け入れるのに時間がかかることもある