「奇跡」のジレンマ
日常用語で出てくる「卓越した結果」という意味ではなく、本来の意味の「奇跡*1」は、それ自体がジレンマを抱えているという話。僕はこのことを「奇跡のジレンマ」と呼びたい。
超常現象と認められるためには
僕は、超常現象の調査なんかをやったりすることがある。調査結果はできる限り論理的で妥当な内容にしようと努力している。つまり蓋然性*2の高い結論を求めているということだ。僕は否定のための否定はしたくないのだ。生真面目な僕は、どのような条件が揃ったら「これは超常現象である」と断言できるだろかと考えることがある。
ここで、仮に超常現象を「自然現象を超えた現象」とおくと、ほぼ「奇跡」と同じ定義となる。ただ、この定義を採用した場合に問題が発生してしまう。
ジレンマ
それは、どんなに低確率の事象であっても、「超常現象である」という結論よりは蓋然性が高くなってしまうということだ。たとえば、宝くじを1枚だけ買い、それが必ず1等になってしまう。しかも、それは3度やって3度とも起こった…といった話があったとする。
インチキをしていないのならば、これはもう超常現象と呼んでいいものだろうと思ってしまう。しかし、本当に論理的に蓋然性の高低をうんぬんするのであれば、「偶然である」とか「誰もわからないインチキを行った」という結論を選ぶしかない。
もっと極端な話をすれば、未発見の自然法則があり、その法則を考慮に入れれば必然的に起こったことだという結論ですら、「超常現象である」という結論よりも蓋然性が高いということになるだろう*3。なにせこちらは、論理的に起こりうる自然現象内の仮説である。