特殊な選択的思考の実例としてABO FAN氏発言を見る

池内了疑似科学入門』の血液型性格判断への言及について、血液型性格判断擁護者としてとても有名なABO FAN氏から具体的な指摘が出ています。実際のところ『疑似科学入門』にはこの手のダメな批判が散見されるので、私も「論じている対象に詳しくないために生じた「事実誤認」「ダメな批判」「間違い」が散在しているように見える。」と以前のエントリで指摘しています*1。以下にABO FAN氏のコメントを引用します。

さて、やっと『疑似科学入門』を読了しました。
労作でよい本だと思いますが、残念ながら「血液型と性格」に関しては科学的に間違っていると言わざるを得ません。
次は、6ページからの引用です。
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そもそも人間を4種類だけで分類することなんかできないから、血液型に科学的根拠がないのは自明のことである。
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しかし、この部分には、心理学者からの反論があります。
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菊池聡 不可思議現象心理学9 血液型信仰のナゾ−後編 月刊『百科』 平凡社 平成10年3月号 28〜29ページ
ただ、最近は血液型性格判断を撲滅しようという意識ばかりが先走って、適切でない批判をする人も散見される。よく聞くのは「多様な人の性格が四つになんか分けられるはずがない」という批判である。しかし「何らかの基準によって四つに分ける発想」自体には本質的に問題はないのである。…この発想自体は心理学でも類型論という考え方で受け入れられている。
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ですので、要するに、池内さんの「血液型に科学的根拠がないのは自明」という主張は、心理学者によると明らかに間違っているといういうことになります。

「疑似科学入門」池内了(岩波新書)コメント#22

池内了氏の批判がダメな批判の典型であることは、菊池聡氏の指摘どおりです。しかし、ここで注目して欲しいのは、ABO FAN氏の言い換えです。

菊池聡氏が否定しているのは、ABO FAN氏の言うような「「血液型に科学的根拠がないのは自明」という主張」ではありません。否定の根拠として、「多様な人の性格が四つになんか分けられるはずがない」といった論理を使うことです。

おそらくABO FAN氏を知らない人から見ると、この不適切な引用は些細なミスに思えるものではないでしょうか。しかし、「「血液型に科学的根拠がないのは自明」という主張は、心理学者によると明らかに間違っている」という要約が、ABO FAN氏にとって、菊池聡氏の発言の適切な要約であるということになっている可能性が十分高いのです。ABO FAN氏をよく知る者ならば理解いただけると考えています。

なぜ、そう考えるかについて、同じエントリのコメント欄からもうひとつ典型的なものを見てみましょう。これは菊池聡氏が血液型性格判断を否定する論拠を説明しているところを引用し、ABO FAN氏の理解した菊池聡氏の判断基準を語ったところです。

(引用者注:ABO FAN氏曰く)統計的に差があればよい、というのが彼の結論です。
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(引用者注:菊池聡氏曰く)いずれにせよ、血液型性格判断はなぜ虚偽なのか、これは提唱者が言うような性格の差が、現実に信頼できる統計データとして見あたらないという点につきる。
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コメント#78

菊池聡氏は「血液型性格判断の提唱者が述べるような性格の差が統計データとして出ていない」と述べているわけで、これは「血液型性格判断の提唱者が言うような性格の差を示す統計データがあるのならば、血液型性格判断を肯定できる」と読み替えてもそんなに問題はないでしょう。

しかし、ABO FAN氏は*2「血液型間の性格の差が統計データとしてあればよい」と読み替えてしまっているわけです。ABO FAN氏は他の投稿で(小さな)統計データ上の差があるとする論文を論拠として出していますので、おそらく「菊池聡氏は血液型性格判断を認めざるを得ないだろう」という認識を持っている(もっていた)ものと思われます*3


疑似科学信奉問題では、「自分の見たいものしか見えない」「見たくないものは無視する」という選択的思考の問題が取り上げられることが多いのですが、こういった実例を見ることによって、いかに小さな変更で大きな結論の違いを得ることができるかを考察することができます。

一口に選択的思考といっても、単純なものから巧妙なものまで、色々とあることを知っていることが重要ではないでしょうか。

*1:[http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20080521/p1:title]

*2:おそらく、「性格の差が、現実に信頼できる統計データとして見あたらないという点につきる」だけを取り出し

*3:但し、ABO FAN氏によれば菊池聡氏は「もっとも、最近は少々立場が変わったようですが…。」ということらしいので、上記のようなABO FAN氏の解釈ではうまくいかない例を見つけたのかもしれません。