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道徳

ニセ科学 水伝

単なるお話なら…

水からの伝言」は単なるお話として考えるのならいいのでは??という話を聞くことがあります。私の考えでは「ダメでしょう」という答えになります。

確かに結論として「いい言葉を使おう」というのはいいと思います。しかし、その結論に至る過程(理由)がおかしいのではないでしょうか。「水からの伝言」を単なる物語だとして捉えたとき、いい言葉を使う理由は何でしょうか?「水からの伝言」の話の要点を以下のようにまとめてみました。

  • いい言葉を使う
  • 整った水の結晶ができる
  • 水は人間の体の多くの部分を占めている
  • 水が良ければ体にも良いはず
  • いい言葉を使いましょう
  • 悪い言葉を使う
  • 崩れた水の結晶ができる
  • 水は人間の体の多くの部分を占めている
  • 水が悪ければ体にも悪いはず
  • 悪い言葉を使わないようにしましょう

ここから、無理やり理由を引き出すとすれば…「整ったものは良くて崩れたものは悪い」から、整った良い状態にするためにいい言葉を使おう!といったものではないでしょうか?
既にさんざん指摘されている事ですが、「整ったものは良くて崩れたものは悪い」という考え方は、道徳としてどうでしょうか?
崩れた形の自然の山と整ったビル。整ったビルが良くて自然の山は悪いのでしょうか?整った顔立ちのAさんと、崩れた顔立ちのBさん。Aさんが良くてBさんが悪いとでも言うのでしょうか?道徳としてはありえないですよね。

なぜありがとうと言うの?

なぜ私達は「ありがとう」と言うのでしょうか?普通なら感謝の気持ちを表すためですよね。そこに科学的根拠なんか必要なかったはずです。

江本氏は、道徳の話に科学実験を持ち込んでしまうという間違いをおかしたわけです。これが間違いだということを認識するために、こんな思考実験もしてみましょう。

江本氏の実験に手違いが発覚しました。どうも、ありがとう容器とばかやろう容器を反対にしていたようです。つまり、「ばかやろう」「死ね」などのラベルの水からは整った結晶ができ、「ありがとう」「愛」などのラベルの水からは崩れた結晶ばかりができていたということです。

水からの伝言」の考え方に従えば、友達に「ばかやろう」「死ね」と声をかけるべきであって、「ありがとう」と声をかけるなんてとんでもないということになってしまいます。
あれ?感謝の気持ちを示して「ありがとう」と相手に伝える事が大事だということは、実験で覆ってしまうようなヤワな話だったのでしょうか?そんなわけはありませんよね。
こんなおかしな話になってしまうのは、「水からの伝言」の「ありがとう」と言う理由が間違っているからです。道徳の話に科学なんか持ち込むべきではなかったのです。


それでも「いいお話」だと思いますか?