科学者だからといって適切に科学的思考を扱えるわけではない*1

たぶん、科学者は科学者というぐらいなんだから、科学的思考を扱う能力は必須だろうと考える人が多いと思う。でも、現実はそうでもない*1

研究にはある程度の決まりきった手順がある*2。それに従うと、科学的思考なんてのをあまり意識しないでまともな結果を出せたりする。

特に物理とか化学なんかは典型的で、自らの仮説をわりと直接的な実験で確認することができる。これが、うまい具合に強力な批判機能を発揮するため*3、科学者個人が科学的思考、又は批判的思考をしていなくても、きちんと科学的な検討を経た結果にたどり着いたりもする。

いや、もっと強く言ってもいいかもしれない。科学者でポパーやクーンなんかを読んで、真面目に「科学とは何か?何が科学的だといえるのか?」なんてことを考えて、科学そのものへの理解を深めようとしているのは物好きだけじゃないだろうか。科学者として仕事をする上で必要なわけでもないし。たぶん、ここら辺は趣味で懐疑論とかに興味を持った人の方が、科学者の平均的理解よりも先を行っていると思う。

場合によっては、科学者自身も自分の科学理解や批判能力を誤解してしまうことがあるようだ*4。でも、このエントリでは、そこはどうでもいい。

むしろ注目したいのは、ある一定の科学者が科学的思考を操る能力に欠けていても、科学全体でみるとうまい具合に研究が前に進むということだ。これは実験などに代表される科学で用いる標準的なツール以外にも理由がある。それは、現在の科学が一人一人の科学者に依存せず、科学者社会という構造によって補完されていることだ*5。個々がすばらしい能力を持っていることは要求しない。でも、結果は凄い。

これは、科学が多重の自己修正機能を持っていることを示している。自己修正機能は地味だけど、目が覚める程すばらしい発明だ。

これを使わない手はない*6懐疑論者とかニセ科学批判者も同じように進めばいいんだと思う。ASIOSのように団体として活動する方法もあるだろう。ニセ科学批判者達のように、個々の論者が個人として持つブログ間でトラックバックを飛ばしあったり、コメント欄で議論をしてもいいだろう。

必要なのは一人一人が間違わないことではない。ときに間違ってもいいから*7、自己修正の原則を忘れず議論を続けることだ。絶対に相互批判を忘れないことだ。相互批判を忘れれば、たぶん腐る。

自己修正はばつの悪い行為だ。自尊心も傷つくかもしれない。でも、厚顔無恥よりはましだ。いっそのこと、自己修正機能を持つこと自体を誇りとして、自尊心の置き所にすればいいんじゃないだろうか*8

科学は自然を理解しようとしただけだ。しかし、科学技術という今ではそれなしで生きていけない副産物を生んだ。懐疑主義もニセ科学批判も相互批判を忘れなければ、自己修正を忘れなければ、何かを生み出せるに違いない。きっと、たぶん、おそらく、ひょっとしたら。


「『ニセ科学批判』批判」問題、というかなんというか。 - 残雪日記」← 直接は関係しないけど、ここら辺とかの話をちょっと考えていて書いた

*1:科学者と一般人の間に、批判的思考能力(科学的な思考と同じようなもの)の差はないという研究結果もあるらしい。私は未確認。

*2:大学生でも研究室に入れば、仮説の立て方とか検証の仕方とかは学ぶはず。そこに秘められた意味まで教えてくれないことも多いかもしれないけど。

*3:自分の間違いに固執しようと思っても、実験で拒否されるために固執できない。結果として自己批判の強い外圧として働く。

*4:こんなことを書くと例の人達がニセ科学批判をしている科学者を上げたりするのだろうけど、個人的に疑似科学とか超常現象に興味を持って、実際に追ったりしている科学者の科学理解度や批判的思考の能力はとても高いケースの方が多い

*5:査読システムは代表的なひとつと言えるだろう

*6:もちろん、今は使っていないという意味ではない。その意義をもっと強調したいだけ。

*7:これは不適切な断言などを免責するものではないが、そういった話はあくまで個人の誠実さの話なので今回は関係ない

*8:人間は自尊心が傷つくことを強力に避けようとする基本的性質をもっている。だから、現実的には自尊心をなるべく傷つけないような対策が必要だ。