科学は絶対ではない
信奉者から批判者に向けられる「科学権威主義ではないか?」といった批判(非難?)がある。私たち批判者は、そんなことは百も承知だと思っているため、「まともな科学者で科学を絶対だと思っている人などいない」とか「それは科学者が一番知っている」といった返答にとどまっている場合が多い。
この件について、批判的思考といった切り口から何か言えないだろうか。
教育によって位置付けられた「知識」とは
学校教育では、一部を除き知識詰め込み型の教育が行われてきた。これは効率よく正しい知識を得るには良い方法ではないかと思われる。また、○×の白黒が付く問題を出せるというのは、テストをする側にも非常に都合が良い。
このような教育において、教師は正しい答えを知っている権威者であり、教科書は正しい答えのリストである。つまり、正しい答えが存在し、その答えを自分の頭の中から取り出せるようにするというのが、知識詰め込み型の教育である。
この場合、「知識」は正しいことの集まりと言える。もちろん、知識には固定的な知識と、手続的知識*1がある。
この視点において科学者はどう位置付けられると推測できるか
「知識」に関してこういった印象を持っていれば、科学者の役割は、より権威性の高い教師という視点で捉えることができる。新たな「固定的知識」を生み出す存在であり、教師が教えるネタの提供者である。
もし、信奉者がこのような知識観を持っているとすれば、その文脈では科学者が「科学を絶対の存在(正解)」であると考えるのが必然であることになる。つまり、こういった知識観の中にとどまる限り、科学者が「科学権威主義」であることは常に正しいとも言えるのではないだろうか。
私たちの説明は不十分ではないか
このような知識観は正しくないが、こういった視点から見ると得られるものもあるのではないか。
私たちの使う「まともな科学者で科学を絶対だと思っている人などいない」とか「それは科学者が一番知っている」という表現は、「知識観」といった重要な信念を変化させるための情報はあまり含んでおらず、結論だけを言ったもののように見える。
説明を十分なものにするためには*2、科学の「考え方」がどのようなものなのか、そしてその実例としての「科学史」、はたまた批判的思考にまで足を踏み入れる必要があるだろう。
もし、信奉者の説得を試みようと考えた場合、この問題は当初の印象より壮大な問題だと考えられるのではないだろうか。しかし、逆にこの問題を解決できるのならば、説得は近いのかもしれない。