ニヒリストにならないための懐疑論(前編)

この文章は2007年に超常現象同人誌『Spファイル5』に寄稿した文章です。3回に分けて投稿します*1
第1回:今回
第2回:ニヒリストにならないための懐疑論(中編) - Skepticism is beautiful
第3回:ニヒリストにならないための懐疑論(後編) - Skepticism is beautiful

信じる事から脱したとき、純粋に超常現象を楽しめる道が見える

超常現象は非常に楽しい。単純にワクワクドキドキすることもあれば、どんな仕組みが裏に隠れているのだろうと首を傾けて不思議に思うときもあります。時には爆笑したり、ツッコミを入れたくなったり、泣けたりする場合もありますね。
ところで、ちょっと考えてみて欲しいのですが、超常現象を楽しむときには、超常現象を信じていないといけないのでしょうか?何かの拍子に超常現象を信じていないことをポロッと出したりすると「夢がない。面白くない人。」などと言われてしまう場合があります。
確かに頭から否定して「ナイナイ、ありえない」なんて言って話を終わらせてしまう人なら、間違いなく全く楽しめないですよね。でも私は、超常現象を見たそのままの事実だと信じてしまうことだって、本当に楽しむ事の邪魔をしてしまうのじゃないかと思います。
例えば、超常現象が事実だと信じて疑わない人は、その超常現象がジョーカーの良く出来たジョークだった場合に楽しめるでしょうか?思わず不快感を持ってしまって、そこで話を止めてしまいたくなったりしないでしょうか?
認知心理学などでわかってきた「信じる心理」に関する話も「お前の信じている超常現象なんて全て錯覚さ」なんて言われているような気がして、楽しめないのではないでしょうか?
自分が信じていることを部分的にでも否定されてしまうと、どうしても楽しむよりも不快感の方が大きくなりそうです。でも、ちょっともったいないですよね。ジョーカーのジョークだって、認知心理学だって楽しめることなのに、自分が超常現象を信じ込んでいるから楽しめなくなるなんて。
そんなわけで、超常現象を楽しむために、やみくもに信じることをやめてみませんか?
いえいえ、ここでは「超常現象などないのだ!」と信じた方がいいとか、信じて欲しいとか言うわけではありません。ただ、超常現象を自分の信念から解き放って大空へ自由に羽ばたかせてみませんか?ということです。もちろん頭から否定してもダメですよね。
私からは、超常現象を大いに楽しむ前の段階として、超常現象をやみくもに信じない考え方といったところについてお話させていただこうかと思います。

超常現象を信じるのは人間の基本仕様だ

超常現象に関する議論を見たことがある方なら「なんでそんなことを信じているのだろう?」と思う方も「なんでそんなに信じられないのだろう?」と思う方もいらっしゃるのではないかと思います。
超常現象を信じない人の中には、超常現象を心から信じている人のことを「愚か」だとか「合理的思考ができない」といったように、いわゆる「劣っている」という見かたをしている人もいるかもしれません。でも、私はそうは考えていません。
結論から先に言うと、超常現象を信じる傾向は人間だったらみんなが等しく持っている「基本仕様」なんです。「基本仕様」だからこそ、この傾向自体は避けられません。
人間は多くの場面で、現在のコンピュータにも再現できないような、高度な情報処理を行います。私たちの脳はとても見事な仕事を日々やり遂げていますよね。
なぜ人間は、正確無比なコンピュータができないようなことまでできるのでしょうか。それは、人間の情報処理の仕方が現代のコンピュータとは違うからです。例えば詳細な情報をばっさり無視して一部の情報だけを取り出したり、情報が少なすぎて結論が出ないはずのものに「えいやっ」と答えを出してしまったり、似ているものを同じものだということにしちゃったり…と、曖昧なものを曖昧なままに上手に効率的に処理するからです。
このように色々な場面に上手に対応したり、効率よく対応したりするためのシステムは、うまくいく事も多いのですが正確さを犠牲にしてしまう面もあります。たまに間違ってしまうのは、当たり前のことでしかありません。
人間は情報処理の効率化のために、ときに不正確であったり間違っていたりすることを信じ込んでしまう傾向を“仕様として”持っています。この仕様のために、きちんとした根拠がなくても超常現象をまごうことなき真実だと確信してしまう場合があるということです。
あれあれ?結局「超常現象はない」って前提で話を進めちゃうの?と思った方もいるかもしれませんね。でもちょっと違います。「超常現象のあるなしに関係なく」人間の仕様は超常現象を信じる方に傾きやすいということです。

基本仕様に回避方法はないのか

基本仕様は仕様であるからこそ、避けるのが難しいということを知ってもらいたいとおもいます。例えば、以下のような錯視図形を見たとき*2、正確な正方形だけで書かれているようには見えません。どうがんばって見ても、殆どの方はゆがんだ四角形を組み合わせて中央が膨らんだような図を作っているように見えるのではないでしょうか。本当に「そう見えるのだからしょうがない」という言葉が適切だと思います。

「ゆがんだ四角形を組み合わせてつくった図だ!」というのは間違いです。でも、決して馬鹿にされるような間違いではないですよね。実際そう見えるのは事実ですから。これは、間違うからといって、それ自体が愚かなわけではないという例でもあります。
ただ「間違いだ!でも基本仕様だからしょうがないよね…」なんていくら基本仕様だと言われても、ちょっとした慰めになるだけで、できることなら間違いたくないのが本音ですよね。本当の事を確かめたい。
このような図の場合は、定規等を図に当てて確かめることができます。印刷がゆがんでいなければ、これが正方形だけを組み合わせて作った図であることがわかるはずです。
確かに正方形だけで作られていることはわかりました。けれども、定規を離してしまうと、よく見ても相変わらずゆがんだ四角形を合わせた図にしか見えないことは変わりません。
つまりこういうことです。基本仕様だから仕様を変えることはできないけど、仕様の問題点を知っていれば、道具を使うという発想ができるし、道具を使う事で仕様の問題点を回避できるかもしれない…と。逆に言えば、道具を使わなければどうやっても避けることのできない間違いもあるということですね。

*1:文章自体は無編集です。

*2:北岡明佳の錯視のページ」http://www.ritsumei.ac.jp/~akitaoka/ より。