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そろそろ相対主義について語っておくか

懐疑 議論

アケオメ!コトヨロ!*1そんなわけで早速みんなの大好きな「相対主義」の話をするよ。今回は相対主義を概観する前編になるんだ。

はじめに

科学の話やニセ科学の議論が始まると、絶対に出てくるのが「オカルトとか超常現象とかニセ科学とかを信じているわけじゃないけど、科学が絶対に正しいわけじゃないよ。ちょっと科学を絶対視しすぎじゃないの」といったような話だよね。なんか普通の信奉者を見るよりもうんざりしちゃう人もいるんじゃないかな。

僕たちの中では、そういう人は「相対主義者」だとか、「悪い相対主義者」「極端な相対主義者」だとか呼ばれてるよね。でも、こういったときの相対主義って何?悪い(極端な)相対主義って何?そこら辺が曖昧な気がするんだ。特に後者のいいかたをするのなら、「いい相対主義」か「穏健な相対主義」、つまりまともな相対主義みたいなのも想定されているよね。じゃ、まともな相対主義って何だろう?

あんまりきちんと語られているのを見たことがないから、「相対主義って何のこと?」って疑問に思って調べてみたよ。ちなみに僕は専門家からは程遠いので、ツッコミ歓迎。

相対主義の分類

相対主義ってキーワードで調べてみると以下のような分類ができるみたい。

相対主義に関するキーワードとしては「文化相対主義*2」なんてのもあるけど、これは議論するには曖昧すぎるように思えるんだよね。明らかに道徳的相対主義や審美的相対主義は対象に入っているようだけど、認識論的相対主義が含まれているのかが曖昧。だから、文化相対主義のことは殆ど語らないよ。

議論の対象とするのは何か?

「科学の話やニセ科学の議論」で扱っているのは、客観的なものについてだよね。そうすると、対象となるのは認識的相対主義についての話ってことになる。だから、道徳的相対主義とか審美的相対主義の話を持ち込んで、「相対主義的なもののみかたが必要だ!」なんて主張をするのは的外れ*3。客観的事実の話と価値観の話は区別しなきゃね。

そんなわけで、僕らがうんざりしてるのは認識的相対主義だってことで話を進めよう。道徳的相対主義とか、審美的相対主義については、僕らは対象にしていないということ。話を認識的相対主義に絞っても、まだ立場の違いはあるみたいなんで、それも分類してみる。

  1. 真理は一人一人違う:あなたの真理と私の真理は違うのだ
  2. 真理は社会的に構成される:あなたの社会ではそれが真理かもしれないが、私の社会では違う
  3. 真理は概念上に存在する:その真理は特定の概念に基づくものであって、違う概念(ものの見かた)を採用すれば違う真理が見える

3番目のは、特に「概念的相対主義」と呼ばれる場合があるみたい。

参考:『クリティカルシンキング 不思議現象篇

ふたつの解釈

おっと、ここでソーカル先生登場です。というか『「知」の欺瞞』ですが。

これらのテクストは、しばしば曖昧であり、少なくとも二つのまったく異なった読み方ができることがわかる。「穏健な」読み方をすると、議論に値するまともな主張か、真実であるが自明な主張が読みとれる。「過激な」読み方をすると、人を驚かすが誤った主張が読みとれるのである。

「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用

相対主義の主張は、穏健な解釈と過激な解釈ができるという指摘。認識的相対主義の3番目はちょっとおいて、1番目と2番目に当てはめて考えてみるとこんな感じ。

  • 「真理は一人一人違う」
    • 穏健:私の見ている世界の意味と、あなたに見えている世界の意味は異なる(あなたには酷い事実に見えるかもしれないが、私には嬉しい事実である)。
    • 過激:あなたの世界では磁石に鉄がくっつくが、私の世界ではくっつかない。これが客観的事実である。私が望んだから私が属する世界はそうなったのだ(願えば事実を生み出せる)。
  • 「真理は社会的に構成される」
    • 穏健:それが事実とみなされるのは社会的合意である。社会が違えば別の事実が認定されたかもしれない(その人が死刑に値する犯罪を犯したというのはあなたの社会での決め事に過ぎない)。
    • 過激:一定の人々が信じればそれが客観的事実になるのである(百匹目のサル現象など)。

え、過激の方の解釈はありえないだろうって?いやいや、本気でこういうことを主張する人はいるんですよ、普通に。想定しているのは「オカルトとか超常現象とかニセ科学とかを信じているわけじゃない」という人なので、過激な方の解釈は特に扱わなくてもいいですよね?対して穏健な解釈をしてしまうと、認識的相対主義ではなくなっちゃうんじゃないかな。

概念的相対主義の立場

そうすると、私たちが考えなきゃいけないことに残るのが概念的相対主義になったね。概念的相対主義っていうのは、自然の理解(世界モデル)が相対的であるということを「人によって「真理」は違う」みたいにいっちゃうこと。専門用語を出しちゃうと、パラダイム論とか、パラダイム間の通約不可能性なんて話にも繋がるところだよ。「真理は社会的に構成される」の穏健解釈もこれに含めても良さそうな気がするね。

パラダイム論や通訳不可能性については、批判も結構あるみたいだけど、ある程度の合理性は認めてもいいんじゃないかなと思うな。でも、これ世界そのものについての客観的事実というよりは、人は世界をどう理解しているかの話だよね。

まとめ

相対主義とひとことで言っても、何を指してるのかわからない。まともな相対主義的主張の中で、僕らが考慮する必要があるのは認識的相対主義だけで、その中でも概念的相対主義の立場だろう。

*1:あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

*2:「進化主義」という未開民族文化から西欧文化の間には文化の進歩があるとする考え方に対抗して出てきた。文化の多様性を優劣に置き換えるような向きもある進化主義が正しくなく、文化は相対的基準でしか語ることはできないと主張している。

*3:ちなみに道徳的相対主義の主張でも、他文化の道徳は「許容すべき」という強い主張は、まともな相対主義からの逸脱だなんて話もある。ここら辺は文化人類学とかの分野で扱っている文化相対主義の話にもなる。他文化の理解に相対主義的な考え方が必要なのであって、それ以上のものを求めているわけではない。