ニセ科学批判の背景にある思想

ニセ科学批判は、その名前から「科学」の活動だと思われているフシがある。私は、「ニセ科学」を「ニセ」「科学」ではなく専門用語だと主張していたのだが、これは別に「ニセ」「科学」でも良いとして、ニセ科学批判を「ニセ科学」「批判」ではなく、「ニセ科学批判」という専門用語だという解釈にした方が疑問が少ない気がしてきた。

ニセ科学批判は主張の真偽が主題ではない

ニセ科学批判をするにあたって、科学的知識は豊富な方が好ましいが必須ではない。なぜならば、真っ黒なデタラメを見分けるのに豊富な科学的知識は必要とされないからだ。デタラメだと決められないものがあるのなら、扱わなきゃいいだけの話だ。もちろん、科学哲学の話なんかできなくても構わない。

ニセ科学批判の主題は、あくまで「嘘をばら撒くな」という話である。特に科学を装う主張に注目した批判活動であるため「ニセ科学批判」という言葉が採用されている。つまりは、「そんなもんが科学だなんて嘘をばら撒くな」というわけだ。

とっても極端な話、今の科学が間違った答えを出していても、その「科学の答え」に反するものを、(科学の手法を正しく用いずに)「これが科学だ」と主張したのならばそれはニセ科学だ。だって、それは科学じゃないから。

変な誤解を承知で言えば、それが科学かどうかに関しては教条主義であろうとも、間違っていないニセ科学批判を行うことはできる。

だから、ニセ科学批判に対する批判として、科学の線引きがどうのこうのとか、科学は完璧じゃないとか、先端の科学の真偽なんか素人にわかるわけが無いなんて話をもってくるのはどっか明後日の方向を向いた話でしかない。

背景にある思想

ここまでは、ニセ科学批判の基本的な話だけど、そういった前提の上で、思いっきり話を飛ばしてニセ科学批判の背景にある思想を考えてみる*1。但し、なぜ嘘をばら撒くのを批判するかは、論者によって違っても構わないから、一般論にはなりえないことには注意したいところ。

ずばり、ニセ科学批判活動の背景にあるのは、世俗的ヒューマニズム(secular humanism)と、ゆるい現代の自由主義(Reform liberalism)が融合したものと考えるのが適切だと思われる*2

簡単に言えば、「信仰が有っても無くても人は道徳的たりえる。最低限の社会的規範以外は自由に行動できるのが好ましい。自由のためには正しい知識を持っていた方が好ましい。」という立場というところである。

私は、ニセ科学批判の中心にいる菊池誠さんや天羽優子さんは、こういう思想を持っていると思っている。つまり、菊池さんや天羽さんの主張は「科学という立場」からの発言ではなく、こういった立場からの発言と捉えるのが適切ではないかな?ということ。

ニセ科学批判は実害批判?

ニセ科学批判では、このお二人が特に目立っていて、天羽さんがかなり実害批判寄りのため、全体的に「ニセ科学批判は(直接的な)実害批判である*3」という認識が強くなっているように思う。

しかし、この点について菊池さんと天羽さんの意識は違うと思う。だから、私はニセ科学批判を実害批判と考えない方がよいのでは?と主張してきた。

私の印象では菊池さんは実害批判であるかどうかは気にしてない。「知識は正しい方が良い」という知的倫理観で行動しているように思える。ま、もしかしたら、菊池さんに対して勝手にカール・セーガンの影を押し付けてるだけかもしれないんだけど。

対して、天羽さんは「善意とか義侠心とかから発した運動というもの - 夜盗虫の朝寝坊」みたいなのを意識していて、危うくない範囲に自分の行動を収めるために実害批判というくくりを設けているんじゃないか?なんて邪推もしたり。

おもいっきり番外:厳しいのはどっち?

たぶん、語り口の印象から、菊池さんは優しく、天羽さんは厳しいという感じを受けている人が多いんじゃないかと思う。私も印象はそんな感じなんだけど、本質的な批判内容は、天羽さんの方がかなり優しく菊池さんは厳しいと思っている*4

追記

天羽さんからトラックバックがついているので、天羽さんの意識についてはそちらを参照ください。→ 「Archives » ページが見つかりませんでした

*1:思いつき段階なのでツッコミ希望

*2:ここら辺の立場は『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』とか、『神は妄想である―宗教との決別』がいい例としてあげられる。

*3:詐欺とか悪徳商法とかに代表されるようなもの

*4:天羽さんは「嘘つくな」ぐらいしか要求していないと思う