ABO FANさんの質問に答えてみたーABO FANさんとの対話実例

ABO FANさんから質問を頂いたので返答します。ABO FANさんよりも、ABO FANさんの言うことが全然理解できないという人のほうが役に立つかもしれません。質問は以下になります。

質問の内容

菊池聡さんの言う「血液型性格判断の提唱者が述べるような性格の差」は、坂元さんのデータに現れました。
だから、私の質問に対して「データ解釈を巡るこうした矛盾はたまにあることです」と返事が返ってきました。
このどこがパッチワークなのでしょうか?
文章読解力は科学を操る能力に類似したものである(かもしれない) - Skepticism is beautifulのコメント欄

ちょっと、これだけだと意味がわかりませんね。いえ、ABO FANさんの文章に問題があるわけではありません。これは一連の流れの中ででてきた質問なので、コメントをひとつ取り上げただけでは、意味がわからないというだけのことです。
経緯は特殊な選択的思考の実例としてABO FAN氏発言を見る - Skepticism is beautifulのエントリ自体とコメント欄を参照してください。ここで触れられている「パッチワーク」については、文章読解力は科学を操る能力に類似したものである(かもしれない) - Skepticism is beautifulのエントリ本文を参照してください。まあ、以下でまとめるので読まなくてもなんとかなるかもしれません。

経緯

まとめるとABO FANさんの考えはこのようになるはずです。

  1. 菊池聡氏は、もともと「統計的に信頼できる差(小さい差でも良い)」があればそれでよいと主張していた
  2. ABO FANさんは、菊池聡氏に統計的に信頼できる差を示している論文(坂元論文)を提示した
  3. ABO FANさんは、「菊池聡氏は「統計的に信頼できる差」を提示されたのだから、血液型性格判断を認めざるを得ないだろう」と考えた
  4. 菊池聡氏の後の著作では、「血液型性格論者が言うような診断力のある差異(小さい差ではダメ)」が必要だと主張している
  5. ABO FANさんは、菊池聡氏が恣意的に、(坂元論文では基準をクリアできないように)基準を変えたと判断した


私の主張は次のようになります。

  1. もともと菊池聡氏は「統計的に信頼できる差が表れていること」ではなく、「(血液型性格判断)提唱者が言うような性格の差が、現実に信頼できる統計データとして表れていること」を求めていた*1
  2. この基準が意味するのは、巷でよく聞く「血液型から個人の性格傾向が分かる」とかいう主張を支持できるような統計の差が必要ということである
  3. よって、ABO FANさんが変えたと主張する2つの主張の間には違いはない。そもそも「統計的に信頼できる差(小さい差でも良い)」というABO FANさんの解釈が間違っているだけだった


これらの経緯があった上での質問ですので、今回のABO FANさんの質問の趣旨は次のようになるでしょう。

  1. lets_skepticの解釈こそが間違っている
  2. 菊池聡氏は最初「統計的に信頼できる差(小さい差でも良い)」と主張していたのだ
  3. なぜならば、坂元論文を菊池聡氏に提示したときの返信が「データ解釈を巡るこうした矛盾はたまにあることです*2」であり、統計的な差が有るか無いかという問題として扱っているからだ
  4. そもそも坂元論文のデータが菊池聡氏の主張に影響を与えないものならば、差の有る無し解釈の問題を持ち出す必要はなく、菊池聡氏の返信は「このような差は、私の言っている差とは関係ないし、私の意見には影響を与えない。こういった差があっても血液型から個人の性格傾向は分かないのだから。」といったような趣旨のものになるはずだ
  5. さらに言えば、「提唱者が言うような性格の差」から「血液型性格論者が言うような診断力のある差異」へと、「診断力のある」という修飾が追加されているのは変化に他ならない。この変化は坂元論文のデータを意識したものだろう
  6. このように、意見が変わったとする主張は、きちんと菊池聡氏の発言に基づき、論理的に分析した結果から得られるものだ


(私としては、このエントリでここまで書いたことと、文章読解力は科学を操る能力に類似したものである(かもしれない) - Skepticism is beautifulで書いたことだけで、ABO FANさん以外の方に何かを伝える役目は十分果たしたと考えているのですが、ダメでしょうか?)

返答

前のエントリ*3で特に触れたように、意見の変化と読むか、ひとつの文脈として読むかというのは、字面の論理的な分析によって行うことではなく、総合的な要因から読み取らなくてはならないのです。

人は、その時々によって「同じこと」でも「違う表現」で表します。そのときの感情や、そのとき思い描いていたこと、前後の文章のつながり、最終的に言いたいポイント、想定読者*4などの要因によって表現は大きく変わります。いえ、表現者がそういった要因が違うと認識していなくても、書く場所やタイミングが違えば違う表現になるでしょう。

本題とは関係の無い余計なことを言うこともありますし、いい忘れもある。前提を共有していないことを忘れてしまうことも有る。うっかり間違う事だってある。

ですから、文脈を読むというのは、前提を共有しない者同士の間では非常に難しいことなのです。こういった問題にぶつかった場合に、前提を共有しない者ができることは、「自己矛盾している」とか「意見を変えた」とか考えるのをやめて、好意的に「一貫している」として解釈し、その上で表現者に質問をすることです。この方法は常にうまくいくわけではありませんが、万能の方法などそもそもありません。

幸いなことに、菊池聡氏と私は、最低限の同じ前提を共有していると考えています*5。そこから導くことのできる結論は、「菊池聡氏は、もとから「小さな統計的データの差異があっても血液型性格判断が肯定されるわけではない」という認識を持っていた」ということです。その背景にあるのは、「血液型性格判断」自体が「診断力のある差異」を前提にしている、だからこそ血液型性格論者が「B型のB君には○○な傾向がある」などといえるのだということです。


「データ解釈を巡るこうした矛盾はたまにあることです」という発言は、単にABO FANさんが坂元論文の紹介として提示したページ*6が「血液型性格判断否定論者の論理は相互に矛盾している」といった意図を持って作られたページに見えたために、本来必要ないにもかかわらず親切に説明しただけだと思われます。
菊池聡氏のコメント原文では「単純に差がある−ないの二分法で考えれば」という制限つきの話になっていますが、わざわざこんなことを書いた意図は、菊池聡氏のいう差とは関係ないからという解釈も成り立ちます。
もっと詳しい意図の推測は、やりとりが完全に公開されない限り難しいと言えます。

補足

私は、他のABO FANさん批判者に比べて、ABO FANさんの主張は理解できるほうだと思います。なぜなら、私も超常現象信奉者時代に、議論でABO FANさんのような分析の仕方をしてしまっていた経験があるからです*7

私がABO FANさんに望むのは、血液型性格判断とか、その批判とかのことは忘れて、「科学」自体に触れ合って欲しいということです。科学批判の文脈ではなく、純粋に科学の文脈でです。遠回りに見えるかもしれませんが、有意義な情報交換を行うつもりがあるのならば、結果的に近道になることは間違いありません。

私も、色々な人が「科学」や「懐疑」それから「批判的思考」について、理解を深める助けをできるようなエントリをこれから上げていきたいと考えています。もし、少しでも参考になるようだったら見ていてください。

*1:ABO FANさんが引用した菊池聡氏の文章の原文は→「いずれにせよ、血液型性格判断はなぜ虚偽なのか、これは提唱者が言うような性格の差が、現実に信頼できる統計データとして見あたらないという点につきる。」

*2:正しくは「単純に差がある−ないの二分法で考えれば松井さんの見解と坂元さんの見解では矛盾があります。データ解釈を巡るこうした矛盾はたまにあることです。これを機に、血液型性格相関説を唱える方々も、この矛盾を解決するような研究をバンバンやって欲しい」 http://www010.upp.so-net.ne.jp/abofan/kikuchi.htm

*3:[http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20080808/p1:title]

*4:暗黙の前提や読解力をどこまで読者に期待するか

*5:私も菊池聡氏の本は最低4冊持っています(正確には数えていませんが、思い出すだけで4冊あります)が、前提の相違による理解の難しさや矛盾を感じるところはありませんでした。

*6:http://www010.upp.so-net.ne.jp/abofan/kagaku-asahi.htm

*7:まだ信奉者から転向してそんなに経たない6年ぐらい前の話ですが、ABO FANさんと直接議論したこともあります。そういった経験もあってABO FAN節の文脈を理解しやすいというアドバンテージはあるかもしれません。おっと、ABO FANさんのページで紹介されている文章の主ではありませんよ。