科学はその成功ゆえ誤解される運命に
既にどこかにもっと分かりやすい適切な話がありそうなのですが、「はてな」というエントリの「謙虚さが足りない」に対し脊髄反射的にエントリを上げてしまいます。一応、自然科学を頭に置いてますが、科学と呼ばれるのが適切な分野なら殆ど当てはまるものと思います。脊髄反射的なので、散漫な文章です*1。
科学は万能か?
「まともな科学者で科学を万能だと思っているような人はいない」というFAQとして有名なぐらい明確に答えられます。万能なんかじゃありません。もう、問われる前から「当たり前」だったんです。
論理で、「演繹」とか「帰納」とか出てきましたよね。帰納は論理的にも絶対的な真にはならないという話も知っている人の方が多いかもしれません。100人の人を集めてきて、陸上短距離100m走のルールで100mを10秒代で走る人が居なかったからといって、100mを10秒代で走る人が存在しないわけではありません。101人目は10秒代で走るかもしれない。
帰納的推論には限界があります。そして、科学理論は帰納的推論をソースとして(概ね)一貫したルールが組み立てられ、演繹的な使われ方をします。人間が全知で無い限り、帰納的推論は不完全ですから、科学の出した結果はいつでも間違っている可能性があります。
いや、別に科学に限定しなくてもいいのです。人間には限界がある。だから万能なものも完璧なものもない。それだけのことです。
これはもう当たり前すぎて、略されていることの方が多いというだけで、いつでもどこでもその範囲内の話なんです。だって「当たり前」以外に言葉がないと思いませんか?「人間は万能ではない」なんて。
科学は謙虚か?
とても謙虚です。でも、傲慢だと思われていることも多いようです。おそらく「何に」謙虚なのかが問題なのです。科学は自然に対して謙虚、事実に対して謙虚なのです。
人間が「こっちの方が都合がいい」とか「こっちの方が面白いじゃないか」などと言っても聞いてくれません。視点を変えれば、人間に対しては鉄壁の傲慢さかもしれません。「自然がこうなってるから」「実験事実はこうだから」と、それに従うだけです。
大きな転換の時はそりゃ、いざこざだってあるかもしれません。科学を運用しているのは人間ですから。人間が科学の謙虚さに我慢できなくなることはあるでしょう。でも、ずっと人間の傲慢さが通ることはないんです。科学は自然に対して謙虚だから、科学の立場をとる限り、自然に謙虚になるしかない。
失望して科学を捨てる科学者はいるかもしれない。だけど、誰か新しい世代が科学*2の立場に立つ。そうやって科学理論は精緻化してきたわけです。
なぜ科学には万能感をもたれてしまうの?
それは、きっと科学が成功しすぎたからです。科学は自然を観察し、それを人間の理解できる言葉で一般化・体系化してきただけです。しかし、そういった知識を用いた技術は、100年前に持っていったら魔法としか思えないようなことまで可能としてしまいました。
普通の人には、何が限界で何がまだまだ進めるところなのか、さっぱり分からなくなってしまったんですね。いや、専門家にとってだって、自分の専門分野からはずれてしまうと、よく分からないことが多くなったんです。
そして、そんな感じでもやもや過ごしていると、あるとき突然出会うわけです。限界のようなものに*3。「え?こんなこともできないの??」と。そして「実感」するわけです。本来当たり前だったはずの、「万能ではない」ということに。
不完全性定理?不確定性原理?
ここら辺で何か感じた人は、ちょっと違うのかもしれませんね。もしかしたら、科学に淡い期待を持っていたのかもしれない。「いつか真実に到達できる*4」といったような。
そこに、「論理的にも、原理的にも決定的な答えは存在しない」とか「得た答えが真実だとしても、それを真実だと知ることはできない」みたいな話が出てくると、失望してしまう。
科学は昔からずっとそうだったんです
科学は最初からそうだったし、それ以上じゃなかったんです。だって人間は万能じゃないから。傲慢な人間が、科学の成功を見て「もっと大きな成功を!」と過剰な期待をかけようとしたんです。でも科学は自然にだけ謙虚だった。それだけのことです。
奇跡と言えば、奇跡かもしれない。欠陥だらけで気分に左右されやすい人間が作ったにしてはうまく行き過ぎてます。もちろん理由はあります。常に間違った方向に進みそうになったときの軌道修正手段があること。それは観測だったり実験だったりします。科学の方法論は「自然の振る舞いに軌道を合わせようとする」ことです。
科学に人格があったら、今までの成功の秘訣をどう答えてくれるでしょうね。私はたぶんこんな答えになるんじゃないかと思っています。
「私は観察していただけ。自然がそのようにできていただけのこと。」(長門口調でどうぞ)