批判をするのならば「いかにして問題」に逃げないこと

経緯*1

もとともは大槻教授が「ムペンバ効果」に対して行った批判*2がダメダメすぎるというところから始まりました*3。その反応として「捨身成仁日記 炎と激情の豆知識ブログ!」というエントリが立ち、「いかにして問題」の話になります。
亀さんのところの「」やTAKESANさんのところの「「原理は解らなくても良い」事に気付いた時。統計の話: Interdisciplinary」でも触れられています。

「いかにして問題」とは何か?

「その現象はいかにして起きるのか」という問題であって、「その現象のメカニズムは解明されているのか」または、「その現象のメカニズムとして妥当なものが想定できるか」という問題です。

亀さんも、TAKESANも何年か前まで*4科学的であることの要件に「メカニズムが判明していること」が含まれると考えていたことを告白しています。つまり、メカニズムが解明されていない現象は科学的なものではないとか、科学として重要なものが欠けているという考え方ですね。

実際に、このような誤解は広く見られるものです。むしろ科学論というか科学哲学みたいなものに触れたことが無ければみんなが持っている誤解かもしれないとも思います。

この問題を理解していないのは理系じゃない人?

こりゃ、理系じゃない人はほとんど知らないかもよ、と思うわけです。

私は理系でも誤解している人は多いと思いますし、普段は理解しているはずなのに、批判となるととたんに「いかにして問題」を取り上げてしまう人もいると思います。

池内先生には悪いのですが、何度も取り上げさせてもらえば、『疑似科学入門』にも同じ論法を使っているところがあります。それはUFO=地球外知的生命体飛来仮説(ETH)を否定するときに、光速の限界を超えてやってきているなどありえない的な否定の仕方をしているところです。ETHを否定するとしたら、「ETHを支持する証拠が無い」というのが決定的なもの*5であって、いかにして問題は弱い論拠にしかなりません。

輪廻転生を否定するときに、霊魂の数を問題とするのも、同じく「いかにして問題」です。

実は科学の歴史にだって存在する

科学者も批判時にこのような批判方法を用いる場合があります。「大陸がどんな仕組みで移動するのか」「地球が丸いなら裏側のヤツは何で落ちないのか」「巨大な石が空から降ってくる仕組みなどない」なんかは、いかにして問題だけを論拠にしたのならば、明らかにダメな批判の例としてあげられます。

実は「水からの伝言」を否定する際に、「水には言葉を理解するメカニズムなど考えられない」というのも「いかにして問題」なのです。

では「いかにして問題」はダメなのか

ダメではありません。しかし、ダメな使い方はあります。批判をする際は「いかにして問題」を主要な(または、唯一の)論拠として使うのがダメな使いかたと言えます。

もちろん、「いかにして問題」が無意味なわけではありません。「いかにして問題」が多く思い浮かぶようなものは、異常度の高いものであるという判断基準にはなりえます。「並外れた主張」と言い換えてもいいでしょう。
「いかにして問題」が多く思い浮かぶような主張は、「並外れた主張には、並外れた証拠が必要となる」*6ということで、強力な証拠が必要なものであると言える場合が多いでしょう。

但し、私は、「メカニズムが解明されていないものは科学ではない」という科学への誤解を生まないためにも*7、なるべく批判として使わない方が望ましいのではないかと考えます*8

*1:ちなみに本エントリタイトルはSSFSさんの「帰無仮説に逃げないこと」のもじり

*2:[http://www.j-cast.com/2008/07/26024115.html:title]

*3:これは「いかにして問題」というより、「あるわけないからあるわけない」という批判です。

*4:ニセ科学論争に関わる前の話ですね

*5:現代の懐疑論の文脈から厳密に言えば、ETHが並外れた主張であるという前提があるというのもまた重要

*6:by マルセロ・トルッツィ [http://asios-blog.seesaa.net/category/4936917-1.html:title]

*7:最終的に、ニセ科学へ対抗するためには、科学教育という手しかないのでしょうから

*8:「愚にもつかない与太話を真面目に検討している」と思われるリスクと天秤にかけてください