あなたのいう常識は本当に常識なのか
人に教えるときの常識 - 遥か彼方の彼方からという記事を読んだ。私が、この記事の内容で強く感じるのは、常識や最低限の知識がないとかあるとかの問題ではなく、それを指摘することの「影響力」でした。
注:原理原則に言及する意図はなく、あくまで留意点の指摘*1です。
議論における常識
私たちのような非合理批判(ニセ科学批判など)の議論をしている人は、ときに「常識」を持ち出して話を進めたくなる場合があるかと思います。
でも、本当にそれは世間の常識なのでしょうか?たとえ、あなたが常識だという、その意見の方が正しいとしても、それは懐疑主義者という特殊なコミュニティの中でしか通用しない常識ではないでしょうか?ニセ科学批判という文化の中での常識ではないでしょうか?
よく出る例で言えば、「悪魔の証明」とか「反証可能性」とか「3た論法」とか…、「相関関係と因果関係の混同」とか、一般的には全然常識的な知識ではありません。
もしかしたら、求めているのは社会人として身につけておいて欲しい知識*2かもしれません。
もっと言えば、そのような言葉を出したくなる場面では、既に相手が知らないことが判明しているのですから、相手にとっての常識ではなかったわけです。「常識*3」という言葉は、相手を無知だと強く指摘しているととられることになります。
相手の無知を指摘する影響
もちろん、それが常に悪いことであると言いたいわけではありません。しかし、「常識」という言葉を出したくなったときは、一度立ち止まり、この場面でその言葉を使うことが建設的であるかどうかは考えた方がよいのではないでしょうか*4。
僕なら、その教科は大嫌いになります。やってられるかと憤慨する。そして余計に勉強しなくなり、知識はずっと身に付かない。
健康な人間は誰しも、自分をダメな人間だと思わなくて済むように動機付けられています。自分を無能だと思いたくない気持ちに、無能であるという指摘をぶつけ、「認知的不協和」を起こしたところで問題が解決することはあまり期待できないと思います。