知識は正しい方がよい

「知識は正しい方がよい」などという考え方は、「知的倫理観」などというもっいぶった言い回しをするまでもなく当たり前のようですが、世の中では比較的無頓着に扱われています。

人間は意外と合理的 - Skepticism is beautiful

という話で終了した話の続きです。

本当に正しいことに無頓着なの?

以前のエントリで、私の考える懐疑主義者のガイドラインを示しました。

  1. 調べる努力をせよ
  2. 信念ではなく根拠に基づいて信じよ
  3. 根拠の強さに応じて確信度を決めよ
  4. 信じるときは間違っていることを覚悟せよ
  5. 根拠が不十分ならば保留する勇気をもて

あなたが懐疑主義だと思っているものは懐疑主義ではない - Skepticism is beautiful

調べようとしないことで1に違反し、白黒二分法*1に陥り2や3に違反し、合理的な反論や提示された根拠を無視して4に違反し、殆ど根拠がなくとも結果を出すことで、5に違反したりするわけです。結果として正しいことに無頓着な状態と言えることになります。

実際にはそんなにストイックな話ではないところでも、正しいことに対する無頓着さが現れます。例えば、「実害なんてないんだからいいんじゃない」「信じた方が夢やロマンがあっていいよね」などといったような意見です。

正しさをどこまで追い求めるか

これは本質的に難しいところだと思っています。人間の知識は無限でもなく万能でもないため、正しさを追い求めれば果てのない旅になります。そのため、どこかの時点で探索を中断することになります。

「どの時点で諦めるか」という問題に答えはありません。しかし、諦めるところを見定めるという方法以外で対処することができます。それは、中断するところを問題にするのではなく、中断したところまでの知識をどう位置付けるかを考えることです*2

但し、調べるのに必要な労力や情熱を理由に判断保留にするのならば問題ないのですが、それが「黙認」のための言い訳になっているのならば、正しいことに無頓着と言えるでしょう。

そして、また上のガイドラインに戻ります。

なぜ正しい方が良いと言えるのか

前回以下のような話を書きましたが、ひとつひとつの正しくない情報が相補関係になり、結論を強化することがあります。このことによって、新たな主張に対してまでなし崩し的に判断を誤ることになります。根拠の質のせいで根拠の強さに関する評価が壊れてしまいまうのです。

例えば、「水からの伝言」を信じる人の一部には、ネイチャー誌に載ったベンベニストの実験や、ホメオパシーとの関連を持ち出す人がいます。また、比較的詳細な量子力学の話や、ペンローズの量子脳理論まで言及したりします。

信奉者の世界観・知識の中では相互に関連し、お互いがお互いの根拠となるガッチリした証拠が存在するわけです。信奉者の世界観・知識の中では正しいと結論付けることが合理的で妥当だともいえます。

人間は意外と合理的 - Skepticism is beautiful

つまり、正しい知識に拘らなければ、どんなに正しい推論を行っても、間違った知識体系を作り上げることになりかねないわけです。前提*3が誤っているために正しい答えを導けない状態です。

正しい知識をストックしておかないと、考えてもダメ、考えなくてもダメという状態に陥ってしまうというわけです。

私たちは思考の自由のために正しい知識を必要としているのです。

*1:事実に拘るというのは、主張が「誤り(正しい)」であれば、それがどういった理由でどの程度「誤り(正しい)」なのかという検討も含みます。

*2:これについては今回語りません。

*3:明確なものだけでなく暗黙の前提になっているものもある