変な批判・嫌悪感の源
嫌悪感
「ニセ科学批判」の批判と、超常現象否定派の否定行動はどこか似ているところがあるという印象と、嫌悪感を持っていた。
「流行:Chromeplated Rat」というエントリと、そのエントリで言及されている「疑似科学批判が流行る理由 : 社会学玄論」というエントリを読んで、なんとなく合点がいった*1。
結論から言えば、おそらく「批判対象に実際にどっぷり浸かって調べていない」という共通点があるためだろう。
簡単に言えば、「ニセ科学批判」批判をやる人も超常現象否定をする人もその対象について無知なのだ。
無知だから、言及のポイントがずれることもあるし、明らかに間違ってしまうこともある。批判(否定)対象とは全く関係ない話になってしまったりもする。最終的には、何が言いたいのかわからなくなったり、批判しているはずの対象が何もないなんてことになってしまう。
「机上の空論」よりも酷く「空想空論」とでも呼びたくなる。
これが、言及先のような上から目線の「メタレベル議論気取り」になってしまうと痛さや醜悪さが増すのは必然だろう。
おかしな懐疑
最近はどうも「懐疑」という言葉も割と知られて来たようだが*2、こういった傾向は、自身を懐疑派と名乗る人の中でも多くなっているようだ。
超常現象が好きで、頭から否定したくないから「懐疑派」を名乗っている人を何人か見たことがある。しかし、超常現象への知識が極端に少ないため、認めるポイントも批判的にみるポイントもずれまくっていた。私もそんなにコアなマニアではないが、それでも「なんじゃこりゃ」と思った。
これもまた、対象を知ろうとしない態度が招いた結果だろうと思う。
結論
何かに言及したくなったら、ひとまず調べましょうよ。
偉そうになったのでバランスのため
私も自分が酷く無知な時代に「わかったような」ことを書いたことがある。思い出すと顔から火が出そうな程恥ずかしい。
そしておそらく今でも無知なまま書いていることがあるだろう。そんな状態を抜け出るために、私はいつでも批判を待っている。
そんな私にとっても批判されることは楽しいことではない。しかし、顔から火が出るほど恥ずかしい行為を続けていくよりはましである。