何をどう信じるか
懐疑論的視点からも「何をどう信じるか」というテーマは奥深く難しいものです。
よく誤解されるものの、現代の懐疑主義者(哲学的懐疑論などを打たない者)は、何も信じないわけではありません。何もかもを疑うのならば、それはむしろ「猜疑主義」とでも呼んだほうがいいものになるでしょう。
詳しい説明が欲しい方は『懐疑論者の祈り』http://www.geocities.jp/wakashimu/kaigi/wakas.htmlを読むのが良いかと思います。
今の世の中は確かに「何でも簡単に信じすぎだ」という懸念を抱かせるような状況かもしれません。だから「ウソ」本の出版が増えているのだと思います。
しかし、猜疑主義的な疑い方は、一般に思われているよりは頻繁に行われています。実際のところ、ただやみくもに疑うだけならば簡単です。
ではなぜ「何でも簡単に信じすぎだ」という印象になってしまうのでしょうか。おそらくその一番の理由は「信じる」ことも「疑う」ことも合理的に行われているわけではなく、感情的に行われているからでしょう*1。
こういった行動の中心にはやはり『ニセ科学批判が非モテだって?』で書いた「思春期の恋愛程度のメンタリティ」程度の「モテ思考」があるのではないかと思います。
多くの情報は、わかりやすさ、おもしろさ、インパクトを重視することで、正しさを削り取っています。
「何を信じていいか」を決定するのはとても難しいことです。では、どうすればいいのでしょうか?
懐疑主義者は、こう言います。
- 根拠の強さに応じて信じよ
- 調べる努力をせよ
- 信念ではなく証拠によって信じよ
- 信じるときは間違っていることを覚悟せよ
- 保留する勇気をもて
これは、簡単か難しいかは別として、努力しなければ身につかない特殊技能です。誰かから与えられるものではありません。
信じることを保証する方策は、短期的な問題を解決するかもしれません。しかし、良い疑い方、良い信じ方を阻害しないか?といったような長期的な視点も、常に意識しなければいけないでしょう。
*1:「信じる」「疑う」という二分法の問題になるわけです