ニヒリストにならないための懐疑論(中編)

この文章は2007年に超常現象同人誌『Spファイル5』に寄稿した文章です。3回に分けて投稿します*1
第1回:ニヒリストにならないための懐疑論(前編) - Skepticism is beautiful
第2回:今回
第3回:ニヒリストにならないための懐疑論(後編) - Skepticism is beautiful

重要視される体験談

ところで、超常現象の話題で最も印象的な「証拠」はなんといっても体験談ではないでしょうか?超常現象の話では、体験談が最も直接的で強力な証拠とされる場合が多いと思います。超常現象はそんなに都合よく何度も起きませんし、異常な物理的痕跡が残る事も殆どないようですからね*2
とても残念なことですが、超常現象は電車内の痴漢と一緒で、体験者の証言ぐらいしか頼るところが無いのが現実です。証拠が重要視される実際の法廷でも、証言が証拠として採用されているのですから、超常現象でも体験者の証言である体験談が重要視されるのは普通のことではないでしょうか。むしろ体験談を軽視する方が異常かもしれません。
海外で行われた調査では、40%〜50%の人が自分又は身近な人の体験を、超常現象を信じるようになった理由としてあげています。このことからも、体験談が重要視されていることが伺えます。
体験談というキーワードは超常現象を考える上で外せないもののようなので、体験談の構造を知る事や、本当のところ体験談がどのぐらい信用できるものなのかということを考える必要がありそうです。

ちょっと驚く体験談の実例

霊体験などについてなら、友達などからでも多くの体験談を聞くことができるのではないでしょうか。軽く想像しただけでも、体験談を全て信用した場合に目の前に広がる世界と、信用しない場合に目の前に広がる世界には驚くほどの違いがあります。ちょっと想像してみてください。
ではどちらが現実の世界に近そうでしょうか。体験談はこんなにも信用を集めているにも関わらず、私は体験談を信用しない世界の方が現実に近いと感じてしまいます。これは人によって全然違う答えが返ってきそうですね。
認知心理学者などの研究のおかげで既に明らかになっていることだけでも、体験談には様々な弱点があり、証拠として用いるのはあまり勧められることではないようです。
次の項目では、体験談の構造を概観しますが、その前にその構造に示した様々な要因を全て含んでいるのではないかと思われる体験談を見てみましょう。1968年のひとつの事件に対する複数の目撃報告です。これは『未確認飛行物体の科学的研究第3巻』からの抜粋引用です。

  • 物体の性質
    • 「降下し、それから見事な編隊で前方に進んでいました。破片が重力に逆らえるのでしょうか?」
    • 「物体の経路が水平だったので物体を衛星の破片や流星だとは思いません。」
  • 物体の出現
    • 「目撃者は皆……翼のない細長いジェット機のようなものを見ました。前も後ろも燃えていました。目撃者は皆、窓がたくさんあるものを見ました。……もしUFOに誰かが乗っていて、窓の近くにいれば、見えたと思います。」
    • 「太い葉巻のような形に見えました……。こちらから見える側には四角い窓があるようでした……。機体は多くの板で構成されていて“リベット”打ちされているようでした……。“窓”の内側から光が漏れているようでした。」
    • 「普通のお皿を逆さまにして上部の出っ張りをなくしたものという感じです。皿よりもすこし細長かった。底の真ん中が出っ張っていて、それは底の半分程度ありました。」
    • 「炎は見えませんでしたが……金色の花火がたくさん見えました……。私の考えでは、それはライトが3個ついた固体燃料ロケットか、3個の楕円形の円盤型の飛行体です。」
    • 「あきらかに円盤型をしていました。」
  • 編隊飛行
    • 「間違いなく軍用機の編隊飛行でした。」
    • 「1個の物体がもう1個を追跡しているように見えました。追跡されている方が速度が速いようでした。追跡側は……もう1個の方を撃墜しようとしているように見えました。」
  • 距離と範囲
    • 「だいたい木の高さ付近で、非常にはっきりと見えました。数ヤードしか離れていませんでした。」
    • 「私たちは、尾をたなびかせた2個のオレンジ色の光体を目撃しましたが、その距離は2ヤードほどでした。」
    • 「自分の町の南にある雑木林に墜落したと思いました。」

このとき目撃されたものは、ゾンド4号*3の大気圏再突入の光景であったことが判明しています。これは非常に目立つものだったので、上の証言をした人達が目撃したものが、ゾンド4号とは別のものだったという可能性はまず考えられません*4
この体験談を読むと、高空で燃えながら落ちる複数の破片を見たはずなのに、体験談として語られるときには、もう何らかの航空機または宇宙人の乗り物(エイリアン・クラフト)としか考えられないような話になってしまうことが分かります。距離も相当離れていたはずなのに、かなり近かったと考えている人がいたようです。
事実と体験談の間に存在しこれだけの違いを生み出すプロセスを考えてみましょう。

体験談の構造を概観する

体験談とは一体何なのでしょうか。ここでは体験談を「ある人物が体験したことを語った報告」という視点で考えてみることにします。実際の出来事をある人が体験した場合、起こった出来事(事象)と体験談の間には図のようなプロセスがあります*5

このプロセス図を見ただけで、ある程度理解してもらえるかと思いますが、体験談の記録は実際に起こった事象の記録ではありません。事象から得た情報を様々な方法で加工したものだと考えた方が適切です。
UFO界のガリレオと言われるJ・アレン・ハイネック博士はUFOの研究について「UFO研究とはUFO目撃報告の研究である」といった趣旨のことを言っています。
つまり、できるのは体験談の研究でしかないということです。そして、わざわざ分けて考えるのは、起こった事象と体験談の間には無視できない違いがあるということです。ゾンド4号の件でもこれは理解していただけるのではないでしょうか。
このことはUFO研究に留まらず、超常現象の多くの場面に当てはめることができます。なぜなら、それはUFOの問題ではなく、体験談の情報処理の問題だからです。
「また聞き」はこの問題をさらに大きくします。体験談が人づてで伝わるときには、プロセス図の出力である体験談が、次の人の事象となってしまいます。このことにより、再びプロセス図のような複雑で変化しやすい情報処理を通ってしまうことになるからです。単純な伝言ゲームでもうまくいかない*6ことからわかるように、このような情報伝達は、うまくいく可能性がかなり低くなってしまいます。
私達が普通に聞く体験談というのは、紛れもなく上に書いたようなプロセスを通ったものです。さらに注意しなければいけないのは、体験談として聞いた人だけでなく、体験者ですら他人に伝える直前の状態まで変化した情報しか知る事ができないということです。体験談は事実と大きく違うかもしれませんが、体験者は決して嘘やデタラメを言おうとしているわけではないということですね。
こういった、実際に起きた事象の記録ではなく、色々と変化した情報しか持つ事ができないという性質は、誰もが平等にもつ人間の基本仕様というわけです。
このような問題を知らないのならば、体験談をもとに超常現象を信じてしまうということは、全く異常なことではないと思います。その方が自然だという捉え方が正しいかもしれません。
体験談の問題点が少しは整理されたでしょうか。このプロセス図はあまりに抽象的過ぎて、分かりにくい点もあるかもしれません。情報のゆがみの原因となる個々の要因については、次回以降の機会があれば掘り下げて解説したいと考えています。

*1:文章自体は無編集です。

*2:異常でないものでよければ結構あるようです。

*3:ゾンド計画は、米国のアポロ計画のライバルとなるソビエトの有人月探査計画のひとつです。正確にはソユーズL1計画として「有人月接近飛行」を目的とされており、ソユーズL3計画の「有人月面着陸」を目的とした計画とは別です。

*4:もし仮にそのようなことがあるとすれば、ゾンド4号の再突入の光景もUFOとは別に同時に見えたはずです。もちろん、そのような報告はありません。

*5:網羅的ではないですし、一般的な心理学の分類とは異なる分類を使っています。そういった意味で不正確かもしれませんがお許し頂ください。通常、心理学では記憶過程を獲得期・保持期・検索期の3段階に分けるようです。

*6:伝言ゲームではこのプロセスよりもだいぶましです。情報選別の必要性が低いこと、次に伝える時間が短いために、記憶を通すことによる情報の欠落が起きにくい(それでもかなり起こる)こと、また事後情報による記憶の汚染が起こらないこと、それから誇張や演出が加えられる可能性が低いという性質があるからです。

ニヒリストにならないための懐疑論(前編)

この文章は2007年に超常現象同人誌『Spファイル5』に寄稿した文章です。3回に分けて投稿します*1
第1回:今回
第2回:ニヒリストにならないための懐疑論(中編) - Skepticism is beautiful
第3回:ニヒリストにならないための懐疑論(後編) - Skepticism is beautiful

信じる事から脱したとき、純粋に超常現象を楽しめる道が見える

超常現象は非常に楽しい。単純にワクワクドキドキすることもあれば、どんな仕組みが裏に隠れているのだろうと首を傾けて不思議に思うときもあります。時には爆笑したり、ツッコミを入れたくなったり、泣けたりする場合もありますね。
ところで、ちょっと考えてみて欲しいのですが、超常現象を楽しむときには、超常現象を信じていないといけないのでしょうか?何かの拍子に超常現象を信じていないことをポロッと出したりすると「夢がない。面白くない人。」などと言われてしまう場合があります。
確かに頭から否定して「ナイナイ、ありえない」なんて言って話を終わらせてしまう人なら、間違いなく全く楽しめないですよね。でも私は、超常現象を見たそのままの事実だと信じてしまうことだって、本当に楽しむ事の邪魔をしてしまうのじゃないかと思います。
例えば、超常現象が事実だと信じて疑わない人は、その超常現象がジョーカーの良く出来たジョークだった場合に楽しめるでしょうか?思わず不快感を持ってしまって、そこで話を止めてしまいたくなったりしないでしょうか?
認知心理学などでわかってきた「信じる心理」に関する話も「お前の信じている超常現象なんて全て錯覚さ」なんて言われているような気がして、楽しめないのではないでしょうか?
自分が信じていることを部分的にでも否定されてしまうと、どうしても楽しむよりも不快感の方が大きくなりそうです。でも、ちょっともったいないですよね。ジョーカーのジョークだって、認知心理学だって楽しめることなのに、自分が超常現象を信じ込んでいるから楽しめなくなるなんて。
そんなわけで、超常現象を楽しむために、やみくもに信じることをやめてみませんか?
いえいえ、ここでは「超常現象などないのだ!」と信じた方がいいとか、信じて欲しいとか言うわけではありません。ただ、超常現象を自分の信念から解き放って大空へ自由に羽ばたかせてみませんか?ということです。もちろん頭から否定してもダメですよね。
私からは、超常現象を大いに楽しむ前の段階として、超常現象をやみくもに信じない考え方といったところについてお話させていただこうかと思います。

超常現象を信じるのは人間の基本仕様だ

超常現象に関する議論を見たことがある方なら「なんでそんなことを信じているのだろう?」と思う方も「なんでそんなに信じられないのだろう?」と思う方もいらっしゃるのではないかと思います。
超常現象を信じない人の中には、超常現象を心から信じている人のことを「愚か」だとか「合理的思考ができない」といったように、いわゆる「劣っている」という見かたをしている人もいるかもしれません。でも、私はそうは考えていません。
結論から先に言うと、超常現象を信じる傾向は人間だったらみんなが等しく持っている「基本仕様」なんです。「基本仕様」だからこそ、この傾向自体は避けられません。
人間は多くの場面で、現在のコンピュータにも再現できないような、高度な情報処理を行います。私たちの脳はとても見事な仕事を日々やり遂げていますよね。
なぜ人間は、正確無比なコンピュータができないようなことまでできるのでしょうか。それは、人間の情報処理の仕方が現代のコンピュータとは違うからです。例えば詳細な情報をばっさり無視して一部の情報だけを取り出したり、情報が少なすぎて結論が出ないはずのものに「えいやっ」と答えを出してしまったり、似ているものを同じものだということにしちゃったり…と、曖昧なものを曖昧なままに上手に効率的に処理するからです。
このように色々な場面に上手に対応したり、効率よく対応したりするためのシステムは、うまくいく事も多いのですが正確さを犠牲にしてしまう面もあります。たまに間違ってしまうのは、当たり前のことでしかありません。
人間は情報処理の効率化のために、ときに不正確であったり間違っていたりすることを信じ込んでしまう傾向を“仕様として”持っています。この仕様のために、きちんとした根拠がなくても超常現象をまごうことなき真実だと確信してしまう場合があるということです。
あれあれ?結局「超常現象はない」って前提で話を進めちゃうの?と思った方もいるかもしれませんね。でもちょっと違います。「超常現象のあるなしに関係なく」人間の仕様は超常現象を信じる方に傾きやすいということです。

基本仕様に回避方法はないのか

基本仕様は仕様であるからこそ、避けるのが難しいということを知ってもらいたいとおもいます。例えば、以下のような錯視図形を見たとき*2、正確な正方形だけで書かれているようには見えません。どうがんばって見ても、殆どの方はゆがんだ四角形を組み合わせて中央が膨らんだような図を作っているように見えるのではないでしょうか。本当に「そう見えるのだからしょうがない」という言葉が適切だと思います。

「ゆがんだ四角形を組み合わせてつくった図だ!」というのは間違いです。でも、決して馬鹿にされるような間違いではないですよね。実際そう見えるのは事実ですから。これは、間違うからといって、それ自体が愚かなわけではないという例でもあります。
ただ「間違いだ!でも基本仕様だからしょうがないよね…」なんていくら基本仕様だと言われても、ちょっとした慰めになるだけで、できることなら間違いたくないのが本音ですよね。本当の事を確かめたい。
このような図の場合は、定規等を図に当てて確かめることができます。印刷がゆがんでいなければ、これが正方形だけを組み合わせて作った図であることがわかるはずです。
確かに正方形だけで作られていることはわかりました。けれども、定規を離してしまうと、よく見ても相変わらずゆがんだ四角形を合わせた図にしか見えないことは変わりません。
つまりこういうことです。基本仕様だから仕様を変えることはできないけど、仕様の問題点を知っていれば、道具を使うという発想ができるし、道具を使う事で仕様の問題点を回避できるかもしれない…と。逆に言えば、道具を使わなければどうやっても避けることのできない間違いもあるということですね。

*1:文章自体は無編集です。

*2:北岡明佳の錯視のページ」http://www.ritsumei.ac.jp/~akitaoka/ より。

シャープのプラズマクラスター掃除機について

まず最初に確認しておきたいのは高濃度のプラズマクラスター』が、「浮遊アレル物質のタンパク質を分解・除去」できるというのは、根拠のある話らしいということです*1。そういった前提を置いた上でも、件の掃除機の広告には問題があるという、消費者庁の判断は妥当なものだと思います。

広告では以下のような宣伝をしていました。

掃除機の中も、お部屋の中も、清潔・快適

掃除機内部で浄化したクリーン排気に乗せて高濃度7000「プラズマクラスター」を室内に放出。床と一緒にお部屋の空気まできれいにします。

ダニのふん・死骸の浮遊アレル物質のタンパク質を分解・除去

「掃除機を使うことで、部屋の空気をきれいにできる」と明確にうたっていたわけです。

「約15分で91%作用を低減します。(1㎥ボックス内での実験結果)」というように、(実情と合わない)実験環境での効果だと注記をしていてもあまり意味はありません。消費者目線でいえば、この商品が他の商品よりも優良な点は『プラズマクラスター』発生装置の搭載によって、部屋の空気をきれいにできる付加価値があることだという認識をするわけです。

今回は、その効果がないのに効果があるように宣伝した、ということで問題になりました。はっきりいえば、ウソまたはウソに準ずる広告だったということです。これがNGだというのは分かりやすい話です。

しかし、ここで立ち止まるのは片手落ちです、たとえ掃除機の広告に『プラズマクラスター』に関する宣伝が全くなくても、掃除機が『プラズマクラスター』発生装置を搭載していること自体がひとつのメッセージになっています。

そもそも、掃除機に『プラズマクラスター』発生装置を搭載しているからには、掃除機の通常の性能に加えて、付加価値になるような効果があるという期待をするのが普通でしょう。ちょっと調べれば、『プラズマクラスター』には部屋の空気をきれいにするような効果があることがわかります。考えを進めれば、掃除機に空気をきれいにする付加価値を付けた商品であるという理解になるはずです。

広告から空気清浄効果に関する記載をなくしたとしても「効果がないにも関わらず、効果があると誤認させる」という問題は存在し続けます。「優良誤認」の判定は受けなくなるでしょうが、非常に脱法的な状況のままにあります。僕は、企業倫理として問題のある状態だと考えます*2

参考:結局プラズマクラスターは効果があるの? ないの?! シャープに聞いてみた – ガジェット通信

*1:それほど調べていないので第三者機関を信用して伝聞調で表現しておきます

*2:これは、いわゆるマイナスイオン商品と同じ状況です。マイナスイオン商品については、マイナスイオンの明確な効果をうたう商品は少なくなっています。企業は「マイナスイオンを出す」ということだけを主張し、消費者が勝手に誤解するのを期待しているのです。

『検証 予言はどこまで当たるのか』震災への言及もあるよ

検証 予言はどこまで当たるのか』は、文芸社から出版されたASIOS新刊です。発売日は10/3。古今東西の予言を検証するという内容の本です。安定のASIOS本なので基本は分かりやすく【伝説】パートと【真相】パートを持つ構成となっています。

震災関係のデマや新たな震災が起こるという予言に触れた箇所もちょこちょこあります。

帯コピー

2012年地球滅亡説から、マクモニーグルノストラダムス、聖書の暗号やファティマ、聖徳太子出口王仁三郎等、日本・海外を舞台とした古代から現代までの主要な予言をすべて取り上げ、予言は本当に当たるのかを徹底検証。さらに「予言を信じてしまう」心理にも迫る!

目次

まえがき――予言はどこまで当たるのか(本城達也

第1章

2012年に人類は滅亡するのか?(本城達也
「みずがめ座の時代」には世界は大きな変革を迎える?(山本弘
ピラミッドには過去の重要な歴史が記録され、未来も予言されている?(本城達也
ジョン・タイターは未来からやってきたタイムトラベラーだった?(本城達也
ジョー・マクモニーグルはリモート・ビューイングで未来も過去も透視できる?(秋月朗芳)
[コラム]中東の終末予言と予言者たち(羽仁礼)

第2章

ノストラダムスは王家の運命から自分の死まで予言した? (山津寿丸)
ノストラダムスフランス革命を予言した?(山津寿丸)
ノストラダムスは2012年人類滅亡を予言した?(山津寿丸)
ノストラダムスは21世紀のために極秘予言を残していた?(山津寿丸)
エドガー・ケイシーのリーディングは、未来を予言した?(皆神龍太郎
ジーン・ディクソンの予言の的中率は85パーセントだった?(本城達也

第3章 日本の予言

出口王仁三郎は日本史上最高の予言者だった?(原田実)
聖徳太子は死後2000年の未来を予言していた?(本城達也
伯家神道の予言」は本当に存在するのか?(藤野七穂
『をのこ草紙』は実在した予言書なのか?(藤野七穂

[コラム]予言の心理学――人は無知や愚さから信じるのではない(菊池聡)

第4章 キリスト教・聖書・カルト関連の予言

「ヨハネの黙示録」は神の終末計画書だった?(蒲田典弘)
「ヨハネの黙示録」はチェルノブイリ原発事故を予言していた?(秋月朗芳)
聖書の暗号――聖書は神の予言の書だった?(皆神龍太郎
ファティマの予言はすべて現実となった?(本城達也
聖マラキは代々のローマ教皇を予言した?(山津寿丸)
[コラム]UFOと予言「少しだけ先の未来」(秋月朗芳)

第5章  こんなにあった!  当たらなかった世界滅亡・大異変予言オンパレード(外れたときの言い訳つき)(山本弘

予言との賢い付き合い方(座談会)

オーバービュー

個々の項目については、ASIOSのメンバーに加え、ノストラダムス研究家の山津寿丸さんが加わっています。コラムと座談会では、心理学者の菊池聡さんも登場します。個々の項目自体も当然充実しているわけですが、文芸社のASIOS本の特徴はプラスアルファの部分です。

5章の当たらなかった世界滅亡・大異変予言オンパレード

志水一夫さんの得意としたジャンルに近い雰囲気をもつ章です。怒涛の終末予言(大天変地異含む)は、その数に圧倒されます。この章を読んだ後では、ここまで外れまくっているにも関わらず(もちろん一度も当っていません)新たな予言が出てくるということが、ギャグとしか思えなくなるでしょう。

菊池聡さんのコラム

座談会でも触れられるのですが、震災デマや、これからより悪いことが起こるという予言を信じる心理についての考察が面白いところです。「予言は不安をあおるだけではなく、不安に原因を与える役割がある*1」という視点は、いままで殆ど語られることの無かった視点ではないでしょうか。「人は自分の信じたいことを信じる」→「では、なぜ不幸な未来の予言も信じるのか?」といった疑問についての、ひとつの答えになっています。
菊池聡さんは、そのメカニズムの中心にあるのが「認知的不協和理論」だと言います。色々語りたくなってくるところですが、まずは本書を読んでいただいてからの方がいいでしょう。

座談会

著者達が好き勝手に色々なことを語ります。菊池聡さんが参加していることもあり、心理学系の話題も多いのですが、めくるめく超常現象マニアの会話といったところでしょう。
座談会のテーマである「予言との賢い付き合い方」についての僕の答えは「批判的思考を身に着けるためのネタ」といったところでしょうか。


検証 予言はどこまで当たるのか

*1:宙に浮いた不安という感情の正当な理由になってくれる…不安な気持ちの帰属先の役割を担うという話。

アラフォーオヤジは目標を達成できたのか?

事のあらまし

話の始まりは昨年9月、幼稚園の運動会で短距離走をやることになり走ったのでした(保護者ががんばる競技の多い幼稚園なのです)。スタートしてみると全てがちぐはぐな感じで前に進みません。周りは20代の親も多い中、運動不足のアラフォーオヤジが残した結果はあまりに当然なビリだったのです。自分のあまりのふがいなさに納得いかず、絶対に1位(当然、目指しているのは6人とか8人とか一緒に走る中での1位です)をとってやるのだと決心、子供にも宣言したのでした。

過去の栄光

高い目標を掲げた背景には過去の栄光がありました。僕は年度の初めの方に生まれたことプラスそれなりに高い身長もあり、子供の頃は基礎運動能力面で有利な立場にありました。そのため、短距離走においては、幼稚園から中学校に至るまで、校内で常に5本の指には入る程度の実力を持っていたわけです(あくまで校内での話ですので、大した実力ではありません)。ちゃんとやればなんとかなるのでは?という気持ちが残っていたということです。
就職後はデスクワークしかしてない上に、全く運動をしない生活を続けていましたので、運動能力はひどいことになっていました。つまり「短距離走が速い」なんてのは、まさに文字通りの過去の栄光でしかなかったわけです。

いきなり3日坊主

当然、1位を取るためにはトレーニングが必要なわけですが、3日坊主で終わってしまいました。仕事が忙しくなったとかなんとか、理由をつけようと思えばいくらでもつけることができますが、なんでも正当な理由がつけられるというのは、大人の悪いところです。その後も、冬の豪雪などに阻まれ、トレーニングゼロで春を迎えたわけです。

トレーニング開始と地区運動会

子供にまで宣言しておいて頑張らないのは、ちょっとどうかと思います。9月の本番に向け、5月になって、やっとトレーニングを開始しました。とはいえ、まずは基礎筋力作りからです。腕立て、腹筋、スクワットといったあたりをやります。1ヶ月ぐらいしたところで、地区の運動会がありました。地区の運動会は、年代別短距離走(100m)になっていて、僕は30代で走ることになります。結果は8人中4位。同じような年代で、同じように運動不足なお父さん方も出ているような状況(中にはかなり鍛えている人もいるようでしたが)なので、なんとか無難な順位で終わった感じです。

短距離トレーニング開始(第一の問題)

筋力作りは続けながら、走るトレーニングも始めることにしました*1。最初はジョギング+スタートダッシュ練習といったところです。しかし、第一の問題が発生。そもそもトレーニングする体力が圧倒的に不足していることに気付きます。足りないものはしょうがないので気力で頑張ります。

故障(第二の問題)

トレーニングを続けると、今度は関節に痛みが出始めました。足首やひざに負担がかかっているようです。休みを入れたり、だましだましトレーニングを続けます。痛みがなくなったところで階段ダッシュなんかもトレーニングに追加。さらにプライオメトリクストレーニングのひとつシザースジャンプなんかもやります。

故障(第三の問題)

このままトレーニングを続ければ実力がつくだろうと思ったところで、第三の問題が起こります。太ももの肉離れです。医者に安静を言い渡されて10日はトレーニングできずという状況です。その後、ジョギングを始め、2週間後からはトレーニングに復帰です。

故障(第四の問題)

まともなトレーニングに復帰して一週間。肉離れの再発です。再び10日の安静期間。幼稚園の運動会の日はどんどん迫っていて、焦りが強くなりました。10日過ぎからは普通にトレーニングに復帰します。

故障(第五の問題)

スタートダッシュの力の入れ具合を色々と検討しながら、渾身のダッシュをしたところで腰に違和感が…。軽く腰を痛めたようです。もう、ここで思い浮かぶ言葉は「年寄りの冷や水」以外ない感じです。

とうとう本番へ

とにかく故障を続けたトレーニング生活でしたが、必死の調整でなんとかまともに動ける状態で本番を迎えることができました。はてさて本番はどうだったでしょうか。周りのお父さん方は20代と30代の混成状態。みんなスマートな感じなのがいやなところです。
一発勝負なので適度に緊張しながらスタートの構え。「用意」、「バン」の直前で微妙にバランスを崩したものの、問題なくスタート。結果は…6人中(7人かも)3位でした。1位、2位との差はあまりなかったものの、とても中途半端な結果に終わった運動会でした。

そして来年へ

故障も含めて、ありのままの実力を確認したのが今年の結果です。正直なところ、仕事をやり、子供が寝た後の時間帯でトレーニングするのは、続けるだけでかなりの気力を必要としました。それでも続けられたのは「懐疑論者としての議論に比べたら楽」という呪文のおかげです。

結果は中途半端でしたが、筋力も付き脂肪も減少。体重は3キロ減程度ですが、トレーニング前のメタボ体型と比べれば、だいぶ締まってきました。来年に向けて淡々とやっていこうという決意を持ったところです。はてさて、決意が鈍らず冬越えできるでしょうか。陰謀論者と議論をするより楽なはず…陰謀論者と議論をするより楽なはず…。

*1:平日仕事が終わって、子供が寝てからの夜中に近所の運動公園でトレーニングしてます。涙ぐましい努力ですw

僕たちはなぜ水伝なんかに悩まされるのか

水もごはんも桃も梨も答えを知っているとか

最近、TwitterFacebookで、僕らにとっては懐かしい「ありがとう」「バカヤロウ」実験が話題になっているそうです*1。詳しくはこちらのエントリなどを参照のこと→『桃は答えを知っている - 男の魂に火をつけろ!』。数年前はごはんを使った似たような実験もどきが話題になりましたが同じようなものですね*2

水からの伝言」として知られる江本勝氏の一連の主張は、本当に突拍子もないものです。ホメオパシーなんかよりさらにどうしようもない主張なので、あえて話の種として使わせてもらおうかと思います。

帰属の話

前回*3スキーマの話を出したときに、蛇足として自分の言動の理由すら推測するしかないということを書きました。つまり、僕らは誰の言動であっても、その真意を直接理解することはできず、推測するしかない存在です。さて、そういった言動の理由を見つけることを、心理学では「原因帰属」とか、単に「帰属」と呼びます。推測に過ぎないので、間違う場面もたくさんあります。これを「帰属の誤り」とか「誤帰属」と呼びます。

特に僕らは感情の出所の帰属が苦手です。おそらく、推測する際に筋道通った原因にこだわるあまり、感情の強さに見合った「合理的な」原因を探してしまうためでしょう。感情ですから、必ず合理的な原因があるとは限りません。

根拠を否定されても信じる人々

さて、僕は4〜5年前ぐらい前に水伝の信奉者達と色々な話をしてきました。素朴な水伝信奉者がたくさんいました。水伝の提示する実験もどきをまともな実験だと勘違いしている人もそれなりにいたものです。水伝の話はすばらしいと感じていたようです。

では、水伝をすばらしく感じてしまったのはなぜでしょうか。すばらしいと感じた人が感情を何に帰属するかという話です。水伝は便利な理由づけを用意してくれています。よい言葉を使うのが正しいと「科学(モドキ)」の「実験(モドキ)」で証明されているということです。無機物の水にすら影響を与えるほどの、自然の原則がそこに存在するというのは、感動に値する話でしょう。

しかし、僕のようなおせっかいな人たちは、水伝のいう「科学」や「実験」がニセモノであることを指摘します。便利な帰属先を失い、すばらしいと感じた感情は宙に浮いてしまいます。ちょっと「当然感動するだろう度」は落ちますが、そもそも水伝のメッセージがすばらしかったと帰属する人もいるでしょう。

しかし、水伝の表面上の話というのは「よい言葉を使おう」「悪い言葉は使わないようにしよう」というメッセージです*4。ちょっと立ち止まってみると、わざわざ水に教えてもらうまでもなく、誰でもその方がいいと知っていることでしかありません。僕のようなおせっかいな人たちは、それも指摘してしまいます。

それでも、すばらしいと感じた感情は残ります。結果として色々な言い訳をつけてしまうという状況に陥ります。道徳としては成り立つとか、科学の方が間違っているとか。そうでなければ感情の帰属先がないからというわけです。

僕は、根拠を否定されても信じる人々をつくっているのは、こういった感情の誤帰属問題ではないかと考えています。そして、おそらく水伝から受けた感動の本当の源泉は「美しい結晶写真」であった人も多かったのではないかと考えています*5

水伝なんかに悩まされるのは、こういった帰属先探しが背景にあるためではないかということです。

信奉者じゃなくてもそんなに変わりません

僕は超常現象懐疑論者として活動しています。世の中の雑多な話題にふれていると、突然オカルトアンテナがピッっと反応することがあります。「なんか怪しいぞ」という直感が働くのです。こんなとき、最初に直感(感情)があり、オカルトアンテナが反応した合理的な理由(帰属先)を探しはじめるという順番だったりするわけです。こういった懐疑的な行動ですら、信奉者の帰属先探しと同じような過程を通る場合があります。

僕はこの後付の帰属先探しをしてしまうこと自体に問題があるとは考えていません。ただ、感情の帰属先を探すとき、僕たちは間違った原因に飛びつきやすいということに留意する必要があるということです。感情の強さに見合うだけの理由が必要だと考えてしまう思考のバイアスに陥ることもあります。僕がこんなに怒っているのは、それだけ原因(相手)が邪悪だからだ…なんていうのはよくある間違いです。さらに言えば、感情の帰属先を探す必要などないという判断もありなんだということを知っていることが大切でしょう。

*1:僕のタイムラインでは肯定的な言及はゼロなんですけれど。

*2:ごはんの実験ではフタの付いたビンを使うとか、すこしは雑菌に配慮した内容になってましたが、ずさんさが増しているようですね。

*3:『[http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20120816/p1:title]』のことです。

*4:裏にはビジネスの話があったりして、真っ黒であったりするわけですが。

*5:本家水伝から影響された層と、ごはんに声掛け実験から入った層では、温度差があったと感じているのですが、その理由も「美しい結晶写真」の有無ではなかったのでしょうか。

トンデモさんは自分に当てはまる言葉で他人を批判する

スキーマ

認知心理学では、物事を理解するために利用される知識の枠組みのことをスキーマ(schema)と呼ぶ。人は様々な経験の中で様々なスキーマを形成する。そして、話題によってさまざまなスキーマを切り替えてもいる。特に難しい話ではなく、誰もが無意識にやっていることだ。そして、何かを理解するためには必ず必要なことですらある。

なぜならば、理解に必要な情報が十分そろっている物事など、まずないからである。親しい家族との日常会話でも、僕らは家族の持つ前提知識やこれまでの言動を元に意味を推測する(つまり、スキーマを利用する)。そういったものが全くない他人の場合、真意を理解するのは難しい。

新しい分野の本を読むときにスキーマの存在を感じる人もいるかもしれない。その分野の1冊目に読む本はゆっくりとした速度でしか読めないが、5冊や10冊ぐらい読むと、非常に早く読むことができる。これはその分野についてのスキーマが出来上がったために、理解が楽になった効果だ。

蛇足だけれど、自分の言動すら、僕らは「自分はこういう人間だ」というスキーマを元に推測しているに過ぎない*1。その方法を他人に適用したのが、他者理解になる。

トンデモさんは自分に当てはまる言葉で他人を批判する

オカルトや超常現象、ニセ科学などの議論が続くと、「トンデモさんは自分に当てはまる言葉で他人を批判する」と呼ばれている投稿が必ず現れる*2

この原因は、自分を理解するためのスキーマを使って他人の投稿を読むために起こっているものだと考えられる。「こんなことを言うのは、こういう背景があるからだろう」という推測、つまり行間を読むのは、自分のスキーマをベースに考えているわけだ。「自分がこんなことを言うのは、こういう場面でだけだから…」というわけである。なら、自分もそういう方法(あくまで推測)で応酬してやろうとして、トンデモさんが応酬のための批判をはじめると「トンデモさんは自分に当てはまる言葉で他人を批判する」になる。

先に書いたように、自分のスキーマを使って他人の主張を理解しようとすることは、誰でも日常的に行っていることで、これ自体はなにもおかしなことではない。しかし、トンデモさんの場合、そのスキーマが他人(主に批判者)から見て特殊なものであるため目立つというわけだ。

他者理解を志さない批判は自分のスキーマさらし

実際のところ、こういった傾向はトンデモさんに限った話ではない。他者理解を伴わない(つまり、議論相手用のスキーマを形成する努力をしない)批判をするのならば、懐疑論者だってそうなるのだ。トンデモさんとの違いは目立つか目立たないかといったところである。結果的に、こういったタイプの批判をするときは、自分のスキーマをさらすことになっている。

それは、批判でも議論でもなく、自分語りに過ぎないかもしれない。

*1:無意識は常に意識に先行するという心理学研究もある。「受動意識仮説」などを参照のこと。「盲視」などの現象もこういった研究を支持する結果だろう。

*2:僕は非合理信奉者を「トンデモさん」と呼ぶのは嫌いなので、ここでは「一般にそういう話がある」というだけの話としてとらえていただきたい。おそらくと学会の山本会長が提唱者。