シャープのプラズマクラスター掃除機について

まず最初に確認しておきたいのは高濃度のプラズマクラスター』が、「浮遊アレル物質のタンパク質を分解・除去」できるというのは、根拠のある話らしいということです*1。そういった前提を置いた上でも、件の掃除機の広告には問題があるという、消費者庁の判断は妥当なものだと思います。

広告では以下のような宣伝をしていました。

掃除機の中も、お部屋の中も、清潔・快適

掃除機内部で浄化したクリーン排気に乗せて高濃度7000「プラズマクラスター」を室内に放出。床と一緒にお部屋の空気まできれいにします。

ダニのふん・死骸の浮遊アレル物質のタンパク質を分解・除去

「掃除機を使うことで、部屋の空気をきれいにできる」と明確にうたっていたわけです。

「約15分で91%作用を低減します。(1㎥ボックス内での実験結果)」というように、(実情と合わない)実験環境での効果だと注記をしていてもあまり意味はありません。消費者目線でいえば、この商品が他の商品よりも優良な点は『プラズマクラスター』発生装置の搭載によって、部屋の空気をきれいにできる付加価値があることだという認識をするわけです。

今回は、その効果がないのに効果があるように宣伝した、ということで問題になりました。はっきりいえば、ウソまたはウソに準ずる広告だったということです。これがNGだというのは分かりやすい話です。

しかし、ここで立ち止まるのは片手落ちです、たとえ掃除機の広告に『プラズマクラスター』に関する宣伝が全くなくても、掃除機が『プラズマクラスター』発生装置を搭載していること自体がひとつのメッセージになっています。

そもそも、掃除機に『プラズマクラスター』発生装置を搭載しているからには、掃除機の通常の性能に加えて、付加価値になるような効果があるという期待をするのが普通でしょう。ちょっと調べれば、『プラズマクラスター』には部屋の空気をきれいにするような効果があることがわかります。考えを進めれば、掃除機に空気をきれいにする付加価値を付けた商品であるという理解になるはずです。

広告から空気清浄効果に関する記載をなくしたとしても「効果がないにも関わらず、効果があると誤認させる」という問題は存在し続けます。「優良誤認」の判定は受けなくなるでしょうが、非常に脱法的な状況のままにあります。僕は、企業倫理として問題のある状態だと考えます*2

参考:結局プラズマクラスターは効果があるの? ないの?! シャープに聞いてみた – ガジェット通信

*1:それほど調べていないので第三者機関を信用して伝聞調で表現しておきます

*2:これは、いわゆるマイナスイオン商品と同じ状況です。マイナスイオン商品については、マイナスイオンの明確な効果をうたう商品は少なくなっています。企業は「マイナスイオンを出す」ということだけを主張し、消費者が勝手に誤解するのを期待しているのです。

『検証 予言はどこまで当たるのか』震災への言及もあるよ

検証 予言はどこまで当たるのか』は、文芸社から出版されたASIOS新刊です。発売日は10/3。古今東西の予言を検証するという内容の本です。安定のASIOS本なので基本は分かりやすく【伝説】パートと【真相】パートを持つ構成となっています。

震災関係のデマや新たな震災が起こるという予言に触れた箇所もちょこちょこあります。

帯コピー

2012年地球滅亡説から、マクモニーグルノストラダムス、聖書の暗号やファティマ、聖徳太子出口王仁三郎等、日本・海外を舞台とした古代から現代までの主要な予言をすべて取り上げ、予言は本当に当たるのかを徹底検証。さらに「予言を信じてしまう」心理にも迫る!

目次

まえがき――予言はどこまで当たるのか(本城達也

第1章

2012年に人類は滅亡するのか?(本城達也
「みずがめ座の時代」には世界は大きな変革を迎える?(山本弘
ピラミッドには過去の重要な歴史が記録され、未来も予言されている?(本城達也
ジョン・タイターは未来からやってきたタイムトラベラーだった?(本城達也
ジョー・マクモニーグルはリモート・ビューイングで未来も過去も透視できる?(秋月朗芳)
[コラム]中東の終末予言と予言者たち(羽仁礼)

第2章

ノストラダムスは王家の運命から自分の死まで予言した? (山津寿丸)
ノストラダムスフランス革命を予言した?(山津寿丸)
ノストラダムスは2012年人類滅亡を予言した?(山津寿丸)
ノストラダムスは21世紀のために極秘予言を残していた?(山津寿丸)
エドガー・ケイシーのリーディングは、未来を予言した?(皆神龍太郎
ジーン・ディクソンの予言の的中率は85パーセントだった?(本城達也

第3章 日本の予言

出口王仁三郎は日本史上最高の予言者だった?(原田実)
聖徳太子は死後2000年の未来を予言していた?(本城達也
伯家神道の予言」は本当に存在するのか?(藤野七穂
『をのこ草紙』は実在した予言書なのか?(藤野七穂

[コラム]予言の心理学――人は無知や愚さから信じるのではない(菊池聡)

第4章 キリスト教・聖書・カルト関連の予言

「ヨハネの黙示録」は神の終末計画書だった?(蒲田典弘)
「ヨハネの黙示録」はチェルノブイリ原発事故を予言していた?(秋月朗芳)
聖書の暗号――聖書は神の予言の書だった?(皆神龍太郎
ファティマの予言はすべて現実となった?(本城達也
聖マラキは代々のローマ教皇を予言した?(山津寿丸)
[コラム]UFOと予言「少しだけ先の未来」(秋月朗芳)

第5章  こんなにあった!  当たらなかった世界滅亡・大異変予言オンパレード(外れたときの言い訳つき)(山本弘

予言との賢い付き合い方(座談会)

オーバービュー

個々の項目については、ASIOSのメンバーに加え、ノストラダムス研究家の山津寿丸さんが加わっています。コラムと座談会では、心理学者の菊池聡さんも登場します。個々の項目自体も当然充実しているわけですが、文芸社のASIOS本の特徴はプラスアルファの部分です。

5章の当たらなかった世界滅亡・大異変予言オンパレード

志水一夫さんの得意としたジャンルに近い雰囲気をもつ章です。怒涛の終末予言(大天変地異含む)は、その数に圧倒されます。この章を読んだ後では、ここまで外れまくっているにも関わらず(もちろん一度も当っていません)新たな予言が出てくるということが、ギャグとしか思えなくなるでしょう。

菊池聡さんのコラム

座談会でも触れられるのですが、震災デマや、これからより悪いことが起こるという予言を信じる心理についての考察が面白いところです。「予言は不安をあおるだけではなく、不安に原因を与える役割がある*1」という視点は、いままで殆ど語られることの無かった視点ではないでしょうか。「人は自分の信じたいことを信じる」→「では、なぜ不幸な未来の予言も信じるのか?」といった疑問についての、ひとつの答えになっています。
菊池聡さんは、そのメカニズムの中心にあるのが「認知的不協和理論」だと言います。色々語りたくなってくるところですが、まずは本書を読んでいただいてからの方がいいでしょう。

座談会

著者達が好き勝手に色々なことを語ります。菊池聡さんが参加していることもあり、心理学系の話題も多いのですが、めくるめく超常現象マニアの会話といったところでしょう。
座談会のテーマである「予言との賢い付き合い方」についての僕の答えは「批判的思考を身に着けるためのネタ」といったところでしょうか。


検証 予言はどこまで当たるのか

*1:宙に浮いた不安という感情の正当な理由になってくれる…不安な気持ちの帰属先の役割を担うという話。

アラフォーオヤジは目標を達成できたのか?

事のあらまし

話の始まりは昨年9月、幼稚園の運動会で短距離走をやることになり走ったのでした(保護者ががんばる競技の多い幼稚園なのです)。スタートしてみると全てがちぐはぐな感じで前に進みません。周りは20代の親も多い中、運動不足のアラフォーオヤジが残した結果はあまりに当然なビリだったのです。自分のあまりのふがいなさに納得いかず、絶対に1位(当然、目指しているのは6人とか8人とか一緒に走る中での1位です)をとってやるのだと決心、子供にも宣言したのでした。

過去の栄光

高い目標を掲げた背景には過去の栄光がありました。僕は年度の初めの方に生まれたことプラスそれなりに高い身長もあり、子供の頃は基礎運動能力面で有利な立場にありました。そのため、短距離走においては、幼稚園から中学校に至るまで、校内で常に5本の指には入る程度の実力を持っていたわけです(あくまで校内での話ですので、大した実力ではありません)。ちゃんとやればなんとかなるのでは?という気持ちが残っていたということです。
就職後はデスクワークしかしてない上に、全く運動をしない生活を続けていましたので、運動能力はひどいことになっていました。つまり「短距離走が速い」なんてのは、まさに文字通りの過去の栄光でしかなかったわけです。

いきなり3日坊主

当然、1位を取るためにはトレーニングが必要なわけですが、3日坊主で終わってしまいました。仕事が忙しくなったとかなんとか、理由をつけようと思えばいくらでもつけることができますが、なんでも正当な理由がつけられるというのは、大人の悪いところです。その後も、冬の豪雪などに阻まれ、トレーニングゼロで春を迎えたわけです。

トレーニング開始と地区運動会

子供にまで宣言しておいて頑張らないのは、ちょっとどうかと思います。9月の本番に向け、5月になって、やっとトレーニングを開始しました。とはいえ、まずは基礎筋力作りからです。腕立て、腹筋、スクワットといったあたりをやります。1ヶ月ぐらいしたところで、地区の運動会がありました。地区の運動会は、年代別短距離走(100m)になっていて、僕は30代で走ることになります。結果は8人中4位。同じような年代で、同じように運動不足なお父さん方も出ているような状況(中にはかなり鍛えている人もいるようでしたが)なので、なんとか無難な順位で終わった感じです。

短距離トレーニング開始(第一の問題)

筋力作りは続けながら、走るトレーニングも始めることにしました*1。最初はジョギング+スタートダッシュ練習といったところです。しかし、第一の問題が発生。そもそもトレーニングする体力が圧倒的に不足していることに気付きます。足りないものはしょうがないので気力で頑張ります。

故障(第二の問題)

トレーニングを続けると、今度は関節に痛みが出始めました。足首やひざに負担がかかっているようです。休みを入れたり、だましだましトレーニングを続けます。痛みがなくなったところで階段ダッシュなんかもトレーニングに追加。さらにプライオメトリクストレーニングのひとつシザースジャンプなんかもやります。

故障(第三の問題)

このままトレーニングを続ければ実力がつくだろうと思ったところで、第三の問題が起こります。太ももの肉離れです。医者に安静を言い渡されて10日はトレーニングできずという状況です。その後、ジョギングを始め、2週間後からはトレーニングに復帰です。

故障(第四の問題)

まともなトレーニングに復帰して一週間。肉離れの再発です。再び10日の安静期間。幼稚園の運動会の日はどんどん迫っていて、焦りが強くなりました。10日過ぎからは普通にトレーニングに復帰します。

故障(第五の問題)

スタートダッシュの力の入れ具合を色々と検討しながら、渾身のダッシュをしたところで腰に違和感が…。軽く腰を痛めたようです。もう、ここで思い浮かぶ言葉は「年寄りの冷や水」以外ない感じです。

とうとう本番へ

とにかく故障を続けたトレーニング生活でしたが、必死の調整でなんとかまともに動ける状態で本番を迎えることができました。はてさて本番はどうだったでしょうか。周りのお父さん方は20代と30代の混成状態。みんなスマートな感じなのがいやなところです。
一発勝負なので適度に緊張しながらスタートの構え。「用意」、「バン」の直前で微妙にバランスを崩したものの、問題なくスタート。結果は…6人中(7人かも)3位でした。1位、2位との差はあまりなかったものの、とても中途半端な結果に終わった運動会でした。

そして来年へ

故障も含めて、ありのままの実力を確認したのが今年の結果です。正直なところ、仕事をやり、子供が寝た後の時間帯でトレーニングするのは、続けるだけでかなりの気力を必要としました。それでも続けられたのは「懐疑論者としての議論に比べたら楽」という呪文のおかげです。

結果は中途半端でしたが、筋力も付き脂肪も減少。体重は3キロ減程度ですが、トレーニング前のメタボ体型と比べれば、だいぶ締まってきました。来年に向けて淡々とやっていこうという決意を持ったところです。はてさて、決意が鈍らず冬越えできるでしょうか。陰謀論者と議論をするより楽なはず…陰謀論者と議論をするより楽なはず…。

*1:平日仕事が終わって、子供が寝てからの夜中に近所の運動公園でトレーニングしてます。涙ぐましい努力ですw

僕たちはなぜ水伝なんかに悩まされるのか

水もごはんも桃も梨も答えを知っているとか

最近、TwitterFacebookで、僕らにとっては懐かしい「ありがとう」「バカヤロウ」実験が話題になっているそうです*1。詳しくはこちらのエントリなどを参照のこと→『桃は答えを知っている - 男の魂に火をつけろ!』。数年前はごはんを使った似たような実験もどきが話題になりましたが同じようなものですね*2

水からの伝言」として知られる江本勝氏の一連の主張は、本当に突拍子もないものです。ホメオパシーなんかよりさらにどうしようもない主張なので、あえて話の種として使わせてもらおうかと思います。

帰属の話

前回*3スキーマの話を出したときに、蛇足として自分の言動の理由すら推測するしかないということを書きました。つまり、僕らは誰の言動であっても、その真意を直接理解することはできず、推測するしかない存在です。さて、そういった言動の理由を見つけることを、心理学では「原因帰属」とか、単に「帰属」と呼びます。推測に過ぎないので、間違う場面もたくさんあります。これを「帰属の誤り」とか「誤帰属」と呼びます。

特に僕らは感情の出所の帰属が苦手です。おそらく、推測する際に筋道通った原因にこだわるあまり、感情の強さに見合った「合理的な」原因を探してしまうためでしょう。感情ですから、必ず合理的な原因があるとは限りません。

根拠を否定されても信じる人々

さて、僕は4〜5年前ぐらい前に水伝の信奉者達と色々な話をしてきました。素朴な水伝信奉者がたくさんいました。水伝の提示する実験もどきをまともな実験だと勘違いしている人もそれなりにいたものです。水伝の話はすばらしいと感じていたようです。

では、水伝をすばらしく感じてしまったのはなぜでしょうか。すばらしいと感じた人が感情を何に帰属するかという話です。水伝は便利な理由づけを用意してくれています。よい言葉を使うのが正しいと「科学(モドキ)」の「実験(モドキ)」で証明されているということです。無機物の水にすら影響を与えるほどの、自然の原則がそこに存在するというのは、感動に値する話でしょう。

しかし、僕のようなおせっかいな人たちは、水伝のいう「科学」や「実験」がニセモノであることを指摘します。便利な帰属先を失い、すばらしいと感じた感情は宙に浮いてしまいます。ちょっと「当然感動するだろう度」は落ちますが、そもそも水伝のメッセージがすばらしかったと帰属する人もいるでしょう。

しかし、水伝の表面上の話というのは「よい言葉を使おう」「悪い言葉は使わないようにしよう」というメッセージです*4。ちょっと立ち止まってみると、わざわざ水に教えてもらうまでもなく、誰でもその方がいいと知っていることでしかありません。僕のようなおせっかいな人たちは、それも指摘してしまいます。

それでも、すばらしいと感じた感情は残ります。結果として色々な言い訳をつけてしまうという状況に陥ります。道徳としては成り立つとか、科学の方が間違っているとか。そうでなければ感情の帰属先がないからというわけです。

僕は、根拠を否定されても信じる人々をつくっているのは、こういった感情の誤帰属問題ではないかと考えています。そして、おそらく水伝から受けた感動の本当の源泉は「美しい結晶写真」であった人も多かったのではないかと考えています*5

水伝なんかに悩まされるのは、こういった帰属先探しが背景にあるためではないかということです。

信奉者じゃなくてもそんなに変わりません

僕は超常現象懐疑論者として活動しています。世の中の雑多な話題にふれていると、突然オカルトアンテナがピッっと反応することがあります。「なんか怪しいぞ」という直感が働くのです。こんなとき、最初に直感(感情)があり、オカルトアンテナが反応した合理的な理由(帰属先)を探しはじめるという順番だったりするわけです。こういった懐疑的な行動ですら、信奉者の帰属先探しと同じような過程を通る場合があります。

僕はこの後付の帰属先探しをしてしまうこと自体に問題があるとは考えていません。ただ、感情の帰属先を探すとき、僕たちは間違った原因に飛びつきやすいということに留意する必要があるということです。感情の強さに見合うだけの理由が必要だと考えてしまう思考のバイアスに陥ることもあります。僕がこんなに怒っているのは、それだけ原因(相手)が邪悪だからだ…なんていうのはよくある間違いです。さらに言えば、感情の帰属先を探す必要などないという判断もありなんだということを知っていることが大切でしょう。

*1:僕のタイムラインでは肯定的な言及はゼロなんですけれど。

*2:ごはんの実験ではフタの付いたビンを使うとか、すこしは雑菌に配慮した内容になってましたが、ずさんさが増しているようですね。

*3:『[http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20120816/p1:title]』のことです。

*4:裏にはビジネスの話があったりして、真っ黒であったりするわけですが。

*5:本家水伝から影響された層と、ごはんに声掛け実験から入った層では、温度差があったと感じているのですが、その理由も「美しい結晶写真」の有無ではなかったのでしょうか。

トンデモさんは自分に当てはまる言葉で他人を批判する

スキーマ

認知心理学では、物事を理解するために利用される知識の枠組みのことをスキーマ(schema)と呼ぶ。人は様々な経験の中で様々なスキーマを形成する。そして、話題によってさまざまなスキーマを切り替えてもいる。特に難しい話ではなく、誰もが無意識にやっていることだ。そして、何かを理解するためには必ず必要なことですらある。

なぜならば、理解に必要な情報が十分そろっている物事など、まずないからである。親しい家族との日常会話でも、僕らは家族の持つ前提知識やこれまでの言動を元に意味を推測する(つまり、スキーマを利用する)。そういったものが全くない他人の場合、真意を理解するのは難しい。

新しい分野の本を読むときにスキーマの存在を感じる人もいるかもしれない。その分野の1冊目に読む本はゆっくりとした速度でしか読めないが、5冊や10冊ぐらい読むと、非常に早く読むことができる。これはその分野についてのスキーマが出来上がったために、理解が楽になった効果だ。

蛇足だけれど、自分の言動すら、僕らは「自分はこういう人間だ」というスキーマを元に推測しているに過ぎない*1。その方法を他人に適用したのが、他者理解になる。

トンデモさんは自分に当てはまる言葉で他人を批判する

オカルトや超常現象、ニセ科学などの議論が続くと、「トンデモさんは自分に当てはまる言葉で他人を批判する」と呼ばれている投稿が必ず現れる*2

この原因は、自分を理解するためのスキーマを使って他人の投稿を読むために起こっているものだと考えられる。「こんなことを言うのは、こういう背景があるからだろう」という推測、つまり行間を読むのは、自分のスキーマをベースに考えているわけだ。「自分がこんなことを言うのは、こういう場面でだけだから…」というわけである。なら、自分もそういう方法(あくまで推測)で応酬してやろうとして、トンデモさんが応酬のための批判をはじめると「トンデモさんは自分に当てはまる言葉で他人を批判する」になる。

先に書いたように、自分のスキーマを使って他人の主張を理解しようとすることは、誰でも日常的に行っていることで、これ自体はなにもおかしなことではない。しかし、トンデモさんの場合、そのスキーマが他人(主に批判者)から見て特殊なものであるため目立つというわけだ。

他者理解を志さない批判は自分のスキーマさらし

実際のところ、こういった傾向はトンデモさんに限った話ではない。他者理解を伴わない(つまり、議論相手用のスキーマを形成する努力をしない)批判をするのならば、懐疑論者だってそうなるのだ。トンデモさんとの違いは目立つか目立たないかといったところである。結果的に、こういったタイプの批判をするときは、自分のスキーマをさらすことになっている。

それは、批判でも議論でもなく、自分語りに過ぎないかもしれない。

*1:無意識は常に意識に先行するという心理学研究もある。「受動意識仮説」などを参照のこと。「盲視」などの現象もこういった研究を支持する結果だろう。

*2:僕は非合理信奉者を「トンデモさん」と呼ぶのは嫌いなので、ここでは「一般にそういう話がある」というだけの話としてとらえていただきたい。おそらくと学会の山本会長が提唱者。

「奇跡」のジレンマ

日常用語で出てくる「卓越した結果」という意味ではなく、本来の意味の「奇跡*1」は、それ自体がジレンマを抱えているという話。僕はこのことを「奇跡のジレンマ」と呼びたい。

超常現象と認められるためには

僕は、超常現象の調査なんかをやったりすることがある。調査結果はできる限り論理的で妥当な内容にしようと努力している。つまり蓋然性*2の高い結論を求めているということだ。僕は否定のための否定はしたくないのだ。生真面目な僕は、どのような条件が揃ったら「これは超常現象である」と断言できるだろかと考えることがある。
ここで、仮に超常現象を「自然現象を超えた現象」とおくと、ほぼ「奇跡」と同じ定義となる。ただ、この定義を採用した場合に問題が発生してしまう。

ジレンマ

それは、どんなに低確率の事象であっても、「超常現象である」という結論よりは蓋然性が高くなってしまうということだ。たとえば、宝くじを1枚だけ買い、それが必ず1等になってしまう。しかも、それは3度やって3度とも起こった…といった話があったとする。
インチキをしていないのならば、これはもう超常現象と呼んでいいものだろうと思ってしまう。しかし、本当に論理的に蓋然性の高低をうんぬんするのであれば、「偶然である」とか「誰もわからないインチキを行った」という結論を選ぶしかない。
もっと極端な話をすれば、未発見の自然法則があり、その法則を考慮に入れれば必然的に起こったことだという結論ですら、「超常現象である」という結論よりも蓋然性が高いということになるだろう*3。なにせこちらは、論理的に起こりうる自然現象内の仮説である。

これでは困る

僕は「奇跡などない」とか「超常現象などない」とか言いたくないので困っているのである。前からそれが存在するのなら喜んで認めると主張しているし、本気でそう考えている。
ということは、定義が現実離れしているということだ*4。より現実的な定義をするとなるとどうなるだろうか。
UFOならETHが正しかったとか、超能力ならESPが科学的実在を認められた*5とか、個別事例ならなんとか思いつくものの、一般的な基準を定めるのは難しすぎる。というわけで、今のところ結論はない。一般的な基準を設けないという結論しかないのかもしれない。

*1:自然現象を超えた(たとえば神によって引き起こされた)現象

*2:どのぐらいあり得るかという度合

*3:ここでは「超常現象」の定義を「奇跡」と同等の扱いにしていることに注意

*4:ということにすればいいのだ

*5:つまり未発見の自然現象だったということになるだろう

『最強のクリティカルシンキング・マップ』

著者の道田泰司様より最強のクリティカルシンキング・マップ―あなたに合った考え方を見つけようを献本いただきました。ありがとうございます。

道田さんとの出会い

僕は懐疑論者を自称しているわけなので、懐疑的思考とか科学的懐疑主義とかそういったことを意識する場面が多い方です。そんななかで、たぶん6年ぐらい前に初めて「クリティカルシンキング」という概念を知りました。今思えば、道田さんが本書で「教育系クリティカルシンキング」と分類しているものだったと思います。

その後「心理学系クリティカルシンキング」や「論理学系クリティカルシンキング」「哲学系クリティカルシンキング」と分類されているような本もいくつも読みました。クリティカルシンキングについてはそれなりに詳しくなったと言っていいと思います。

その頃に出会ったのが道田さんのWebページでした。ここでは道田さんの論文などを読むことができます。
http://www.cc.u-ryukyu.ac.jp/~michita/jiko.html
ここで、共感・対話とクリティカルシンキングの関係について語っていることに、心動かされた覚えがあります。私が求めていたクリティカルシンキングでした。日本人のクリティカルシンキング研究者=道田教授という図式が確定した瞬間です。

本の話

今回の本は今までに無かったクリティカルシンキングの本です。僕はとても道田さんらしい本だと感じました。
巷のクリティカルシンキング本の多くは、クリティカルシンキングの一面的な話しかでてきません。この本では様々なクリティカルシンキング本を引用しながら全体を概観するマップを作っていきます。
クリティカルシンキングを探求する姿の実例を道田さんが示しているような印象も受けました。その中で「よりよい思考=クリティカルシンキング」を浮かび上がらせます。

しかし、この本の中で僕がすばらしいと思うのは、なんといっても6章「学びを深める」のところです。この章は他のクリティカルシンキング本を読んだだけでは、ほとんど出てこない話です。不正確な表現もありますが、ざっと列記してみます。

  • クリティカルシンキングは本来難しいことだ。
  • でも誰でもどこかではやっていることだ。
  • クリティカルシンキングは合理的で反省的な思考方法だが、反省しすぎでは問題解決につながらないことも、問題を悪化させることもある。
  • 開かれた心が必要。
  • 何かを決定するためには枠組みが必要。
  • 常識を疑うためには、別の常識の枠組みが必要。
  • クリティカルシンキングは必要なときに使えばよい。
  • 自分にあったクリティカルシンキングがある。

ここに列記したことについて、何か感じた方なら是非読んでほしいと思います。

追記

過去のエントリでも、クリティカルシンキングのおすすめ本を紹介しています。全くクリティカルシンキング関連の知識がない方はこっちの方を先に読まれた方がよいかもしれません。必読:批判的思考を知るための3大オススメ本 - Skepticism is beautiful